108 主への進言 その3


 季白があっさりと頷く。


「はい。張宇がまずは龍翔様の許可を得よと言いますので、龍翔様の許可を得てからと思いまして。――まあ、あの小娘に、拒否権などあろうはずがないのですが」


 季白の返答に龍翔が目を吊り上げる。


「待て! わたしが許可を出すのは、あくまでも、明珠自身が遼淵の娘となることを納得したうえでの話だぞ!? 明珠が拒んだ時には、もちろん白紙だ!」


 龍翔の言葉に、季白が真っ向から反論する。


「お言葉ですが、龍翔様。あの小娘に拒否権があるとお思いですか!? 何より、貧乏人の娘が蚕家の令嬢となれるのです! 断る愚か者など、いるはずがございません!」


「だが、遼淵が父親になるのだぞ?」


「…………。それでも、貧乏生活から脱出できるのなら、よいことでは?」


 問われた瞬間、季白の視線が揺れたのを、張宇は確かに見た。


 さしもの季白も、遼淵が父親になる、と考えると、思わず引いてしまうらしい。張宇もその気持ちはわからなくもない。


 と、何やら考え込んでいた季白が、「さすが龍翔様でいらっしゃいます……っ!」と感嘆に満ちた声を上げた。


「弟の名前を出せば、小娘は一もにもなく頷くに違いありませんっ! さすが龍翔様! お見事な策略でございますっ! 先に龍翔様のご許可を得よと言った張宇の真意がようやくつかめました!」


「わたしはそういうつもりで言ったのではない!」

「俺はそういうつもりで言ったんじゃない!」


 龍翔と張宇の声が見事に調和する。


「とにかく! 遼淵に正式に娘として認めるよう、働きかけるかどうかは、明珠の返事次第だ。言っておくが、明珠と話をする時は、必ず張宇を同席させるのだぞ? 張宇。季白が明珠に無理難題を強要せぬよう、しっかり目を光らせておいてくれ」


「かしこまりました。お任せください」

 主の命に、張宇は力強く頷く。


「それと……」


 言いよどんだ龍翔が、うっすらと頬を染めて気まずげに視線をそらした。


「婚約など……。冗談でも、そのようなことを言うのではない! わたしは決して、明珠に意に染まぬことをいる気はない! そもそも、玲泉の暴挙の抑止力というのなら、遼淵に正式に娘と認めさせるだけで十分だろう!?」


 語気も荒く龍翔が告げる。


「明珠をわたしの婚約者とずれば、政敵は必ずや明珠を狙い、わたしを陥れるために明珠にも魔の手を伸ばしてくるに違いない。ろくでもない政争の渦中に明珠を巻き込むなど、看過できん! 玲泉の魔の手から守るためなら、玲泉にだけ、明珠の素性をそれとなく知らせればよかろう。明珠を手に入れたいと欲するなら、彼奴あやつもわざわざ明珠の素性を広めはせぬだろうからな。遼淵には、玲泉が明珠を嫁にと求めてきても、決して応ずるなと重々言い聞かせておけ。……まあ、遼淵がやすやすと説得されるとは思えんが」


 龍翔の言に、季白が感心したように頷く。


「明珠の素性をおおっぴらにして、龍翔様の足を引っ張る事態を巻き起こすなど、言語道断ですからね! 何をしでかすか、予想もつかぬのがあの小娘ですから……。龍翔様がおっしゃる通り、遼淵様に認めていただいたのち、周康殿を通じて、玲泉様にだけこっそりとお伝えいたしましょう。そうすれば、周康殿が玲泉様に受けた恩義もある程度返せて、周康殿も心穏やかにいっそう龍翔様にお仕えできることでしょうし……。結果、玲泉様が遼淵様の攻略にかかずらって、明珠から少しでも意識がそれてくれれば、万々歳ですね!」


「玲泉の最終目的は明珠ゆえ、どこまで意識をそらせるかはわからぬが……。いまの状況で龍華国へ帰れば、どんな動きをするか読めぬからな。打てる手は打っておいたほうがよいだろう」


「かしこまりました。では、明日にでも明珠に意思確認をしたうえで、周康殿に《渡風蟲》で遼淵様に文を送りましょう」


 やけに上機嫌な様子で応じた季白が、


「お休み前にお時間をいただきまして、申し訳ございませんでした」

 と恭しく一礼する。


「かまわん。だが……。くれぐれも、明珠の意に染まぬことはするなよ? 張宇、し

っかり季白を見張ってくれ」


「もちろんです!」


 力強く応じた張宇は、隣室へ戻る龍翔のために扉へ駆け寄ると、さっと開ける。


「夜更けまで申し訳ございませんでした。どうぞ、ごゆっくりお休みください」


 日々、公務に追われる龍翔が少しでも回復してほしいと、真摯な思いをこめて告げる。


「ああ。お前達も無理をするのではないぞ」


 応じた龍翔の後姿を見送り、扉を閉め。


「……どうした、季白? 途中から、やけに上機嫌になっていたが……?」


 満足そうに、口どころか顔中をゆるめている季白に尋ねる。


 先ほどのやりとりで、季白はこれほど喜んでいる理由がさっぱりわからない。


 明珠の同意を得るという条件付きだが、龍翔の許しを得られたことが、それほど嬉しいのだろうか。


「上機嫌になるに決まっているでしょう!」


 季白が満面の笑みで弾んだ声を上げる。


「あなたも聞いていたでしょう!? 龍翔様のお言葉を!『婚約など、冗談でもそのようなことを言うのではない!』と! つまり、龍翔様は小娘を妃として迎える気などないということ……っ! ご自身には、妃としてもっとふさわしい女人がいると、ようやく目が覚められたのですね……っ! わたしは、龍翔様なら、きっと正気に戻ってくださると信じておりました……っ!」


「……季白……。それ、どう考えても、お前は真逆の誤解をしていると思うぞ……」


 張宇は思わず呆れ声で呟く。


 「婚約」と聞いた時に頬を染めていた龍翔を見て、なぜ、明珠と婚約したくないという理解になるのか。


 あの反応は、どう見ても……。


 だが、張宇の呟きは、季白には届かなかったらしい。


 聞こえなかったのをよいことに、張宇は季白の誤解をとくのを諦める。


 龍翔が明珠に想いを告げる前に、季白によって無理やり婚約を結ばされたりしたら……。二人が、あまりに気の毒だ。


「季白。俺はもう寝るから、お前も早く休め。龍翔様もあのようにお疲れなんだ。龍翔様のお供として付き従っているお前も、疲れがたまってるだろう?」


「わたしは大丈夫ですよ。龍翔様のおそば近くでお仕えしていれば、龍翔様の素晴らしさに感銘し、見つめているだけで身体の奥底から活力がわいてきますからね! 龍翔様さえいらしてくださったら、不老不死も夢ではない気がしますっ!」


「……ああうん、よかったな……。けど、龍翔様の従者が、目の下にくまなんて作っているのを見られるわけにはいかないだろう?」


 なんだかもう、真面目に応じるのも馬鹿らしくなってきて、あくびを噛み殺しながら適当に告げると、季白が勢いよく頷いた。


「それはその通りですね! せっかく周康殿が復帰してくれて、多少なりとも余裕ができたのですから、休めるときにしっかり休んでおかなくては……っ! 明日の朝は明珠を説得せねばなりませんしね」


「言っておくが、『明珠の意に染まぬことを強いるな』という龍翔様のお言葉をしっかり心に刻みつけておけよ。まあ、お前が龍翔様のお言葉を忘れるとは思わんが……」


 気を抜いた途端、押し込めていた眠気が押し寄せてくる。


 慣れぬ異国の気候に、どこに敵が潜んでいるかわからぬ緊張感。

 昼間はおもに明珠の警護につき、夜間は浬角や安理と交代で寝ずの番についているため、いやおうなしに不規則になる睡眠……。


 思えば、こうして季白と一緒の部屋で眠るのも、ずいぶんと久しぶりな気がする。


 着物を脱ぎ、夜着へと着替えた張宇は、自分の寝台にもぐりこむ。


 優しく身体を受け止めてくれる布団の柔らかさに、もう一度あくびをこぼし、張宇は身体からあふれ出してくる眠気に身をゆだねた。


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