106 夜更けまで留守番をさせて悪かったな
「明順、安理。いま戻った」
玲泉の姿が見えないことにほっとしながら、龍翔は己に与えられた部屋の扉を遠慮がちに叩いた。
遅くなるので先に寝ていてよいと明珠には言っておいたが、明珠のことだ。無理をして起きて待っている可能性もある。
「お帰りなさいませっス~♪」
待つほどもなく、安理が扉を開けて龍翔を出迎える。
「明珠は?」
問いかけながら室内に素早く目を走らせると、中央に置かれた大きな卓で、冊子を開けたまま突っ伏している明珠のつむじが見えた。
「龍翔サマをお待ちするんだって、頑張って待ってたんスけどねぇ……。眠気に耐えきれなくて、ちょっと前に……。いちおー、眠いんなら寝台に言っていーんだよと勧めたんスけど……」
足早に卓に歩み寄る龍翔の背に、安理の声が届く。
「あ、お待ちしている間、玲泉サマも他の者も、誰も来なかったんで、その点はご安心くださいっス♪」
「そうか。留守番、ご苦労だった」
安理の報告に頷きを返し、明珠の隣に立つ。
腕を枕に健やかな寝息を立てる明珠の姿を見るだけで、心がほぐれてゆくのを感じる。
「夜更けまで留守番をさせて悪かったな。お前ももう下がってよいぞ」
このまま卓で寝てしまっては、身体が痛くなってしまうだろう。寝台に運んでやらねばと、眠る明珠を抱き上げようとすると、安理がさっと寄って来て、龍翔の動きに合わせて椅子を引く。
龍翔が横抱きに抱き上げても明珠は目を覚ます様子がない。くたり、と力を失った身体がもたれてくる。
「乾晶の時のような冗談を言ったら、口を縫いつけるぞ」
にやけ顔の安理に先に釘を刺すと、「えぇ~っ!」と安理が不満そうに唇をとがらせた。
「も~っ! オレの楽しみを奪わないでくださいよぉ~! だいじょーぶですって! 龍翔サマがご自分の寝台に明珠チャンを連れ込んでも、絶対、口外なんてしないっスから!」
「やはり、口を縫われたいようだな。明珠が針と糸を持っていただろう? 自分で縫っておけ」
「自分で!? 龍翔サマひどっ! 横暴~っ!」
明珠を起こさぬようにだろう。小声で軽口を叩く安理を無視して、衝立の向こうへと歩を進める。軽やかな足取りでついてきた安理が、明珠を下ろしやすいように掛布をめくり上げた。
「……季白が明珠を渡すのと引き換えに蛟家の後ろ盾を得られるよう、玲泉と取引しようとしたらしいな」
前ぶれもなく問うと、掛布を持つ安理の手がわずかに揺れた。
「え~。そんなコト、誰から聞いたんスか~?」
「玲泉からだ。
「ぶひゃっ! 玲泉サマらしいっスね~♪ まあ、龍翔サマと季白サンの仲を裂こうだなんて、するだけ無駄ってヤツっスけど♪」
そっと明珠を寝台に下ろし、掛布をかけてから、けらけらと笑う安理を無言で見つめると、気まずそうに目をそらされた。
「いやあの、えーと……。ほら! 季白サンが本気で実行しよーとしたら、全力で止める気だったっスし……。そもそも、張宇サンが許さないに決まってるっスから! それにほら、アノ時は龍翔サマが来られるまでの時間稼ぎが必要だったんで、季白サンと玲泉サマの丁々発止のやりとりを楽しむのも悪くな――いやっ! 二人の交渉がもめればもめるほどオモシロ――。えーっと……」
「ほう? ゆえに、わたしへの報告も
「え……っ!? いやそのオレも忙しかったっスから! 龍翔サマが駆けつけられた時はそれどころじゃなかったっスし、その後は雷炎殿下の調査で町へ出てたっスし……」
「冗談だ。責めたりはせぬ」
珍しくうろたえる安理にくすりと笑って告げると、安理がはあぁ~っと大きく吐息した。
「んもーっ! 龍翔サマったら、心臓に悪すぎるっスよ~! こぉんないたいけなオレをいじめて何が楽しいんスかぁ~!」
「どの顔でいたいけな、などと言っている? ……ひとまず、今回の件に関しては、お前と季白が手を組んでおらぬようで安心した」
「ちょ……っ!? それを確かめるためにオレに圧をかけたんスかぁ~!? んもーっ、そんなコトをなさらなくったって、龍翔サマに尋ねられたら、素直に答えるっスよぉ~!」
「素直に答えるお前ではないから、回りくどいことをしたのだ。……季白や遼淵と組んで、明珠に薬を盛った件については、まだ完全に許してはおらぬからな?」
視線に圧をこめると、安理が「やっだな~♪」と受け流すようににへら、と笑った。
「オレは何としても龍翔サマに皇位につかせる気の季白サンとは違うんで♪ 純真な明珠チャンを玲泉サマに売ったりしたら、さすがに寝覚めが悪いっスからね~♪ そ・れ・に♪」
安理がきしし、とこの上なく楽しそうに笑う。
「明珠チャンは、龍翔サマのおそばにいるのがいっちばんオモシロイに決まってるんで♪ このオレが、こぉんな素敵なお楽しみを、そうそう手放すワケがないっスよ~♪」
「お前な……」
楽しいコトが最優先♪ と公言してはばからない隠密に、思わず嘆息したところで。
「んぅ……」
明珠がもぞりと寝返りを打ち、龍翔と安理はそろってぴたりと動きを止めた。が、明珠は起きる様子もなくすうすうと寝息を洩らす。
「……わかった。今回はお前の言を信じよう。下がって休め」
「信じていただけて嬉しいっス~♪ んじゃま、失礼しまーす♪」
龍翔の囁き声に、安理もまた囁き声で返し、軽やかに身を翻す。
扉を開閉させる音さえ立てず安理が出て行ったところで、龍翔は身をかがめると明珠の足からそっと靴を脱がせた。寝返りを打って裾が乱れたせいで、引き締まったくるぶしがちらりと覗いている。
明珠の肌にふれたいと一瞬、心をよぎった欲望を覆い隠すように、龍翔はそっと掛布を愛しい少女にかけてやる。
と、明珠がすがるようにぎゅっと布団を抱きこんだ。身動ぎした拍子に前髪が散り、隠れていた額があらわになる。
腕を枕にしていたせいで、服のしわがついてしまったのだろう。額に幾本もついた薄紅い筋が見え、龍翔は思わず口元をほころばせた。「龍翔サマをお待ちするんだって、頑張ってたんスけどねぇ~」と話していた安理の言葉がよみがえる。
遅くなるため、先に眠っていてよいと、事前に言っておいたのだが、明珠のことだ。従者である自分が主人より先に眠るわけにはいかないとか、安理が起きて待つというのに、自分だけが眠っては申し訳ないなどと考えたに違いない。
そこにあるのは、従者としての忠誠心だけで、恋や愛といった甘やかなものは含まれていないとわかっていても、純粋に龍翔を思いやってくれる明珠の優しさに心がほぐれる心地がする。
こみあげる愛しさに、身をかがめそっと指先で額にふれると、くすぐったかったのか、「んぅ」と不明瞭な声を上げながら明珠が身動ぎした。
「おやすみ、明珠」
愛しい少女の額に優しくくちづけた龍翔は、自制心が揺らぐ前に素早く身を翻すと、衝立の向こうへと立ち去った。
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