105 渦巻く懸念 その6


「あの……っ、玲泉様、お待ちください……っ!」


 緊張した声で玲泉を呼び止めたのは、終始黙していた周康だ。


「お礼を申し上げるのが遅くなってしまい、申し訳ございませんでした。淡閲たんえつでは、玲泉様のおかげで一命をとりとめることができました。誠にありがとうございます。このご恩は、いつか必ず返させていただきます」


 立ち上がった周康が、身を折るようにして深々と頭を下げる。


 ずっと礼を言う機会をうかがっていたのだろう。周康の声には抑えきれぬ感謝の念が宿っていた。


「恩返し、ねぇ」


 周康のつむじを見下ろしながら、玲泉が思わせぶりな声を出す。


「それなら、明順を手に入れるのに協力してもらえるのが、一番ありがたいのだけれどね」


「っ!」


 瞬間、龍翔から放たれた圧に気づいたのだろう。がばりと蒼白な顔を上げた周康が、がくがくと震えながら必死な様子でかぶりを振る。


「申し訳ございません! わたしも命は惜しいので、それだけはご容赦くださいませ……っ!」


 本気で怯えている周康を見ると、いったい龍翔のことを何と思っているのかと、問いただしたくなる。


「それ以外でしたら、わたしでお力になれることはいたしますから……っ! 何とぞ、それだけは……っ!」


「そこまで言うのなら、仕方がないね。では、いつか、別のことで役に立ってもらおうか」


 玲泉も最初から期待していなかったのだろう。あっさりと告げると、ほっと表情を緩めた周康を残し、部屋を出ていく。


 玲泉が明珠の元へ行かないかどうか確認するべきかと一瞬悩むが、明珠には安理をつけている。もし玲泉が行ったとしても、安理が不覚をとることはあるまい。


 それよりも。


「季白」

 龍翔の硬く低い声に、季白がびくりと肩を震わせる。


「……お前は、わたしは蛟家の後ろ盾を得ねば皇位につけぬと? 明珠で皇位をあがなう卑怯者だと考えておるのか?」


「っ! め、滅相もございませんっ!」


 龍翔の問いかけに、季白が血の気の引いた顔でかぶりを振る。


「龍翔様が卑怯者などと……っ! 天地がひっくり返っても、そのようなことを思うはずがございませんっ! わたしはただ、龍翔様が歩まれる道が少しでも平らかになればと――」


「そのような気遣いは要らぬ」


 季白の言を一刀両断に叩き斬る。


「どれほど険しいいばらの道であろうと、たとえ傲慢とそしられようと、わたしは皇位も明珠も諦める気などない」


 ゆっくりと、季白の心に沁み込ませるように強い声音で告げる。


「今後、明珠を玲泉との取引に使うことは断固禁じる。玲泉の甘言に乗せられ、明珠を傷つけるようなことがあれば――。その首が、飛ぶと思え」


「で、ですが……っ!」


 首を斬ると言われてなお、迷いを見せる季白に、龍翔は内心、感心とも呆れともつかぬ感慨を抱く。


 どんなことをしても、龍翔を皇位に押し上げようとする季白の忠誠心は頼もしい。だが。


「季白」


 静かに名を呼ばうと、季白が弾かれたように顔を上げた。

 切れ長の目を真っ直ぐ見つめ。


「わたしを信じろ」


「っ!」

 心臓を射抜かれたように季白が震える。


「お前の忠誠は嬉しく、頼もしい。だが……。わたしは人の道にもとる手段に手を染め、安易に皇位を得ようとは思っておらぬ。季白、お前の役目はわたしが大道に外れそうになった時に、それをいさめることだろう? だというのに、お前が先に道を外れてどうする?」


「も、申し訳ございません……っ!」


 唇をわななかせた季白が、ざっと床にひざまずき、こうべを垂れる。


「目先の利益にとらわれたわたくしが間違っておりました……っ! 誰に恥じることなく大道を歩まれることこそが、龍翔様が進まれるべき道! だというのに、わたしごときがそれをけがそうとするなど……っ! この身を切り裂いてお詫び申しあげても足りませんっ! どうか、わたくしめに罰をお与えくださいませ! 龍翔様からの罰でしたら、喜んでお受けいたします!」


「……いや。わかってくれればそれでよいのだ。罰を与えようなどとは思っておらぬ。それより――」


 おずおずと顔を上げた季白と視線を合わせ、にこりと微笑む。


「これからも、わたしによく仕えてくれるか?」


「もちろんでございます! この季白、これからも龍翔様にすべてを捧げる所存でございますっ!」


 感涙に目を潤ませた季白が、ふたたび深々と頭を下げる。


「うむ、頼むぞ。だが、今夜はもう遅い。お前達も休むとよい」


 穏やかに告げ、扉へ歩み寄ると、心得たようにさっと動いた張宇が、恭しく扉を開けた。


 もう一人の忠臣に、龍翔は低い声で囁く。


「張宇。大丈夫だとは思うが……。しばらく季白についていてやってくれるか?」


 これほど厳しく季白を叱責したのは、明珠が少女だと玲泉に知られた時以来だ。

 季白の様子を見るに、大丈夫だと思うが……。変に暴走されても困る。


 龍翔の言葉に、口元をほころばせた張宇が「お任せください」と請け負う。


 頼もしい返事に安堵しながら、龍翔は部屋を出た。


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