105 渦巻く懸念 その5


「あの……」


 と遠慮がちに声を上げたのは困り顔の張宇だ。


「もう夜も更けてまいりましたし、芙蓮姫の嫁ぎ先については、早急に決める必要はないのではないでしょうか……? 藍圭陛下もお疲れのようですし……」


 張宇の声に藍圭を見やれば、小さくあくびを噛み殺している。


 ただでさえ自分が主催となって雷炎をもてなして気疲れした上に、宴の後にまで、休む間もなく話し合いを持ったのだ。泣いて体力を消耗してしまったというのもあるだろう。


 確かに、これ以上は幼い藍圭には酷だ。


「わ、わたしはまだ……っ」


 あわてたようにかぶりを振る藍圭を、初華が優しくいさめる。


「張宇の言う通りですわ。藍圭様が『花降り婚』を前にして、体調を崩されては大変ですもの。今夜はもう、お休みくださいませ」


「ですが……っ」


 と抗弁しようとした藍圭が、初華に「ね?」と有無を言わさぬ笑顔で微笑まれ、「はい……」と素直に頷く。


「では参りましょう。浬角。藍圭様の就寝の支度を」


「はい!」


 初華に命じられた浬角があわてて立ち上がる。初華と魏角将軍に両側を守られるようにして、眠たげな藍圭も出て行った。


 龍翔も続いて立ち上がろうとして。


「龍翔殿下は、愛らしい明順が待つ部屋へ帰られるのですか? なんとも羨ましいことです」


 はああっ、と芝居がかった吐息とともに玲泉に声をかけられ、龍翔はこめかみがぴくりと動くのを感じた。


「見目麗しい従者ならおぬしには何人もおろう?」


 玲泉の望む答えではないと知りながら、あえてずれた答えを返すと、案の定、玲泉がつまらなさそうに鼻を鳴らした。


「見目のよさなど、いまのわたしには何の価値もありません。わたしが欲するのは明順だけですから」


 部屋に残ったのが龍翔と玲泉、季白と張宇、周康と、事情を知る者だけになった途端、玲泉がぬけぬけと明順の名を出してくる。


「いい加減、せめて明順の本当の名を教えてくださってもよいのではありませんか? 明順という男性用の名は偽名なのでしょう?」


「誰がおぬしなどに本当の名を教えるものか!」


 反射的に声を荒げると、玲泉がからかうように唇を吊り上げた。


「龍翔殿下はこと明順に関しては、ひどく狭量でいらっしゃる。了見が狭い男は、そのうち明順にも呆れられてしまいますよ? ……まあ、わたしにとっては、そのほうが好都合ですが」


「言わせておけばぬけぬけと……っ! やはり、今ここで華揺河に叩き込んでおくか」


「り、龍翔様!?」


 半ば本気で呟いた龍翔にあわてた声を上げたのは常識人の張宇と周康だ。季白はと言えば、


「それでしたら、瀁淀の仕業に見せかけましょう。芙蓮姫様を藍圭陛下のお味方に引き込んだ玲泉様を逆恨みしたという筋書きではいかがでしょうか? 玲泉様に手をかけたとなれば、心おきなく瀁淀を罰せますし、玲泉様も、差し添え人でありながら、ろくでもない事態ばかり引き起こすこの身が、龍翔様のお役に立てるのなら……っ! と快諾してくださるに違いありませんっ! ですよね? 玲泉様。わたしからも厚く御礼申し上げます」


 と、とんでもないことを口にして、龍翔の命あらばすぐに動く気で身を乗り出している。


 さしもの玲泉も、口元を引きつらせた。


「……わたしが晟藍国で何かあれば、龍華国に戻った際に、蛟家が黙っていないと思うけれどね?」


「なるほど……。その点は考慮せねばなりませんね。よい案だと思ったのですが……。誠に残念です」


 季白がどこまで本気なのかうかがえない表情で、ふぅ、と吐息する。


「季白、きみ……。蛟家の後ろ盾を得るためなら、明順を引き渡してもよいと言っていた口で、よくそんなことが言えるね」


 玲泉が呆れ果てたように、季白をじとっと見やる。が、季白は涼しい顔だ。


「わたしは龍翔様の御為でしたら、どのような汚れ仕事でもいたしますので」


「待て季白」


 季白本人よりも、玲泉の言葉が聞き捨てならなかったのは龍翔だ。


「いまの話は何だ? わたしは聞いておらぬぞ。――蛟家の後ろ盾を得るために明順を渡す、だと?」


 問う声が自分でもはっきりとわかるほど、剣呑な響きを帯びて低くなる。

 季白があわてふためいた様子で口を開いた。


「ご安心くださいませ! ちゃんと一度、龍翔様がむつまれてから――」


「黙れ! 回数など問題ではない! 何があろうと、明順をわたしのそばから離すわけがなかろう!」


 激昂のあまり、声がひび割れる。

 季白が衝撃にあえぐように唇をわななかせた。


「おや。龍翔殿下は、わたしよりも先に華揺河に叩き込まねばならぬ相手ができたようですね。では、お邪魔になっては申し訳ないので、わたしは退散するといたしましょう」


 自分でこの状況を引き起こしておきながら、いけしゃあしゃあと告げた玲泉が、悠然と席を立つ。


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