105 渦巻く懸念 その3


「初華姫様は本当に情が深くていらっしゃいますね。正直に申し上げて、藍圭陛下が羨ましい」


 端麗な面輪に羨望を宿らせ、玲泉が隣に座る龍翔にだけ聞こえる囁き声で告げる。


「明順も、以前、藍圭陛下のお話をうかがった際に涙ぐんでおりましたし……。女人とは、あのように情が深いものなのでしょうか?」


「芙蓮姫と親しくしていたおぬしなら、自分がいま言った言葉の真偽がわかるだろう?」


 冷ややかな声でそっけなく返す。


 女人の誰もが初華や明珠のようであるはずがない。確かに、明珠の心根の清らかさは得難い美点だが、それを褒めそやすのが玲泉だというだけで気に食わない。


 体質のせいで女人と接する機会が極端に少ないせいで、玲泉は女人に過分な期待を抱いているのかもしれない。


 さとい玲泉は、龍翔が言わんとしたことを的確に読み取ったらしい。「なるほど」と首肯する。


「男も女も同じ……。結局は、人それぞれということでございますね」


 「であれば……」と玲泉がにこやかに微笑んだ。


「求める者が心優しい性格であることを、心より感謝しなければなりませんね」


「心優しいと評することに異論はないが、その優しさが己にも向けられるとは期待せぬことだな」


 他の者が見れば、うっとりと見惚れてしまいそうな甘やかな笑みを浮かべた玲泉に、龍翔は氷よりも冷ややかな声で釘を刺す。


「おや? 無垢で愛らしい彼の者ならば、困っているものを捨て置くなど、決してしないものとおもいますが? それとも、主の強権を発動して禁じるおつもりですか? ……嫉妬は見苦しゅうございますよ?」


「黙れ。困ってもいないのに困っているふりをして、人を惑わす不埒者ふらちものが何を言う? よく動くその舌を縫い留めてやろうか?」


 思わず声を低めると、玲泉が軽やかな笑い声を立てた。


「わたしが困り果てているのは、正真正銘、まことでございますよ? どうすれば、愛しい彼の者を手に入れられるだろうかと……。思い悩むあまり、眠れぬ夜を過ごしているのでございます」


「決して手に入らぬものを追い求めて眠れぬとは、無為な時間を過ごしておるようだな。おぬしがいま考えるべきは、差し添え人として、いかにしてつつがなく『花降り婚』を成就させるかということだろう?」


 ぬけぬけと明珠を「愛しい」などと口にする玲泉に、苛立ちを隠さず問い詰めると、


「その点に関しても抜かりはございません」

 と小憎らしいほど落ち着いた口ぶりで返ってきた。


「『花降り婚』の成就は、皆の望みでございますからね。わたしも差し添え人にふさわしい働きをお見せいたしましょう。つきましては、褒美として愛しい彼の者と逢うことが叶えば、さらに邁進まいしんする気概きがいも湧く――」


「ふざけるな! 今すぐその口を縫いつけて華揺河に叩き込むぞ!」


 堪忍袋の緒が切れかけた龍翔が思わず声を荒げたところで。


「も、申し訳ありませんでした……。お恥ずかしいところを……」


 ようやく涙をおさめた藍圭が恥ずかしそうな声を上げる。泣きやみはしたものの、目元や鼻の頭は赤らみ、寄り添う初華の衣をぎゅっと握りしめたままだ。


 もらい泣きしたのか、雛鳥ひなどりを守るかのように藍圭を抱き寄せる初華の目もうっすらと潤んでいる。


 仲むつまじい二人の様子に心があたたかくなるのを感じながら、龍翔は藍圭に向き直ると、「いいえ、お気になさらないでください」と穏やかに声をかけた。


「『花降り婚』を前に、藍圭陛下には御心労が積み重なってらっしゃることでしょう。ひとりで抱え込んで折れてしまうよりも、出せる時に感情を出されたほうが、心の安寧のためにもよいことでございましょう」


 龍翔に続き、玲泉も端麗な面輪に柔らかな笑みを浮かべて藍圭を見やる。


「わたしの不用意な一言のせいで、陛下にご心労をおかけしてしまい、申し訳ございません」


「いえっ、とんでもありません!」


 頭を下げた玲泉の言葉に、藍圭がふるふるとかぶりを振る。


「玲泉殿のおかげで、大切なことに気づくことができました。玲泉様に指摘されなければ、わたしはどれほどひどいことを強いているか気づくことさえできず、大切な初華姫様のお心を無自覚にさいなんでいたことでしょう……。玲泉様に感謝こそすれ、詫びていただく必要など、まったくありません! むしろ、お礼を申し上げたいくらいです!」


 力強く言い切った藍圭に、玲泉が口元をほころばせる。


「陛下にそうおっしゃっていただき、安堵いたしました。はからずも藍圭陛下と初華姫様の絆がさらに強くなられたようで、差し添え人として嬉しゅうございます」


 藍圭と初華を見やる玲泉のまなざしは微笑ましいものを見守るような慈愛に満ちている。


 玲泉が裏の思惑を感じさせぬ穏やかな表情をするのは珍しい。


 互いを思いやる藍圭と初華に、さしもの玲泉も心が動かされたのだろうか。


「芙蓮姉様の婚姻については……」


 身じろぎして初華の手を遠慮がちにほどいた藍圭が、椅子に真っ直ぐに座って口を開く。他の者達もあわてて居ずまいを正した。


 全員が落ち着いた頃合いを見計らって藍圭が言を次ぐ。


「玲泉様にご指摘いただいた懸念を考慮するに、姉様は雷炎殿下とめあわせぬほうがよいように思います。そもそも、姉様にはすでに瀁汀殿という婚約者がおりますし……。婚約者を捨てて雷炎殿下に嫁いでは、外聞もよくないことでしょう」


 藍圭の言葉に玲泉が応じる。


「瀁淀や瀁汀ならば、雷炎殿下の後ろ盾が得られるとなれば、あっさり婚約を反故ほごにして芙蓮姫を差し出しそうですが……。幸いというか、今のところ雷炎殿下は表立って芙蓮姫を求めてらっしゃるようではありませんからね。藍圭陛下の方針でよろしいかと存じます。ただ……」


 玲泉が表情を引き締め、声を落とす。


「このままつつがなく『花降り婚』が成就すれば、瀁淀の失脚は確実。息子である瀁汀も、連座して罪に問われる可能性は大いにあるでしょう。その結果、芙蓮姫との婚約が破棄され、断るべき理由がなくなった際に、雷炎殿下に芙蓮姫を求められた時――。陛下は、どうなさるおつもりですか?」


「っ」

 玲泉の言葉に、藍圭が小さく息を飲む。


 だが、玲泉の問いかけはもっともだ。藍圭も初華も、もちろん龍翔達も皆、『花降り婚』を成就させ、瀁淀を大臣の地位から追い落として藍圭の国王としての地位を確固たるものにするために動いている。


 となれば、瀁淀の失脚は、そう遠くない未来の決定事項だと言ってよい。


 常に未来のいくつもの可能性を考慮し、事前に対策について考えておくことは、まつりごとあずかる者なら、当然のことだ。


 たとえ今すぐに結論が出なくても、考えておく必要がある。


 龍翔は口を挟みたい気持ちを抑え、静かに藍圭の言葉を待つ。


 幼くとも晟藍国の国王は藍圭だ。藍圭のために力を尽くすことを惜しみはしないが、いつまでも甘やかしてばかりというわけにもいかない。


 部屋にいる全員が見守る中、唇を引き結んだ藍圭がしばし黙考し――。


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