105 渦巻く懸念 その2


「その……。『花降り婚』においては、子をすことは許されておりません。藍圭陛下と初華姫様があまりに仲睦まじく、将来、陛下の側妃に御子が生まれなかった場合……。芙蓮姫の子が、王位を継ぐ可能性が、まったくないとも言い切れません。その場合、芙蓮姫が雷炎殿下に縁づいていれば、震雷国の皇族の血を引く皇子が晟藍国の国王となってしまいます」


 淀みなく話す声音とは裏腹に、玲泉の表情は硬い。


「領土拡大に積極的な震雷国のこと。数世代後には……。晟藍国が震雷国に取り込まれている可能性も考えられます」


「そんな……っ!」


 玲泉の未来予想図に、藍圭が悲痛な声を上げる。


「まさか、雷炎殿下がそのような企みを持ってらっしゃるなんて……っ!」


「藍圭陛下、落ち着いてくださいませ。わたしが申しあげたのは、あくまで推測に過ぎません」


 穏やかな声音で藍圭を慰めたのは、推測を口にした玲泉本人だ。


「雷炎殿下は第二皇子でいらっしゃいます。将来、皇位を継がれる皇太子殿下とは、婚姻の重要度が異なります。己の望み通りの伴侶はんりょを選べる余地が大きいゆえ、いま申しあげた策を採る可能性も皆無ではないと……。雷炎殿下と同じ第二皇子でいらっしゃる龍翔殿下は、いかが思われますか?」


 玲泉が思わせぶりな視線を龍翔に送ってくる。


 そのまなざしを見れば、言外に「皇位につこうと欲する者が、何の後ろ盾もない女人を召し上げるなど、愚の骨頂でしょう? 今からでも芙蓮姫と婚約して、晟藍国の後ろ盾を得てはどうですか?」と揶揄やゆしているのは明らかだ。


 が、今は玲泉の挑発などに乗っている場合ではない。


「藍圭陛下」

 龍翔は、蒼白な顔でかたかたと震える藍圭に、穏やかに呼びかける。


 だが、藍圭は龍翔の声も聞こえていないかのように、焦点の合わぬ目で震えるばかりだ。


「わたしは……」


 藍圭が呼気にまぎれそうなほど、かすれた声を洩らす。


「わたしは、晟藍国を簒奪者さんだつしゃである叔父上の手に渡してはならぬと……。亡き父上の後を継ぎ、仇を討つのはわたし自身に他ならぬと思って、『花降り婚』を要望することを決めました……。ですが、それは……。未来の晟藍国に、大きな問題を押しつける選択だったのでしょうか……? いえっ、それだけでなく……っ!」


 不意に、藍圭の声がいまにも泣き出しそうにひび割れる。


「震雷国との間に、禍根かこんを残すだけではありませんっ! わたしは初華姫に――」


「藍圭様」


 りん、と未来の夫を呼ばった初華の声に、藍圭がびくりと肩を震わせ、口をつぐむ。


 初華を見返した面輪は蒼白で、大きくみはった目は、今にも涙がこぼれ落ちそうなほど潤んでいた。


「藍圭様」

 もう一度、宝物のように藍圭の名を紡いだ初華が、ふわりと微笑む。


 まるで、陽の光をあびて咲く花のように。


「藍圭様が誤解をなさらぬよう、はっきり申しあげておきます」


 初華の黒曜石の瞳が真っ直ぐに藍圭を見つめる。


「わたくしは『花降り婚』の、藍圭様のもとへ嫁ぐことを自分自身で決めたのです」


「初華姫、様……?」


 きっぱりと言い切った初華に、藍圭が真意を掴みかねると言いたげにかすれた声を出す。


「宴の時に、お兄様や雷炎殿下がおっしゃられてましたでしょう?」


 初華が包み込むような笑みを藍圭に向ける。


「たとえ《龍》や《焔虎》の力があろうとも、できぬことのほうが多い、と。お兄様や雷炎殿下であっても、望むもののすべてを手に入れることは叶わぬのです。誰しも、己の望みを叶えようと足掻あがき、それでもすべてを得ることは叶わずに望みを選びながら生きているのです。ですから」


 初華のまなざしが藍圭を射抜く。


「わたくしは、たとえ子を産む喜びを味わえずとも、一生を龍華国の王城の鳥籠とりかごで自由もなく飼われ続けるより、たとえ危険や苦労を味わおうとも、自分自身の足で歩みたいと願ったからこそ、藍圭様の求婚をお受けしたのです。『花降り婚』を受諾したのは、他でもないわたくし自身の意志。その点に関しては、たとえ藍圭様であろうとも、口出しはできませんわ」


 初華の声は静かでありながら、有無を言わさぬ迫力を秘めていた。

 飲まれたように藍圭が押し黙り、卓に沈黙が落ちる。


 と、重く淀んだ空気を打ち払うように、初華があでやかに微笑んだ。


「ですから、藍圭様には、得られぬのを嘆いて詫びるより、それを補ってあまりあるほどの幸せを一緒に探しましょうと言っていただけたら嬉しいですわ」


「初華姫様……っ!」


 感極まったように初華の名を呼ばった藍圭の面輪が、不意にくしゃりと歪む。かと思うと。


 ぼろぼろと、つぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。


「わ、わた……っ、わたしはほんとうに、初華姫様に、なんとお礼を申しあげたらいいのか……っ」


 涙をこぼしながら、藍圭が懸命に言葉を紡ぐ。


「初華姫様のお心に、どうすれば報えるのか、いまのわたしにはわかりません……っ! ですが……っ! いつか、必ず初華姫様をお幸せにしてみせますから……っ!」


 一度、せきが切れてしまったせいで、涙が止まらないのだろう。握りしめた拳であとからあとからあふれてくる涙をぬぐいながら、嗚咽おえつまじりに藍圭が告げる。


「まあっ、藍圭様ったら……」


 藍圭の涙がうつったように潤んだ声で呟いた初華が、隣に座る藍圭の小さな身体をそっと抱き寄せ。頬を伝う涙を袖で優しくぬぐう。


「そのように言っていただけて、初華は嬉しゅうございます。ですが、どうぞお一人で気負わないでくださいませ。わたくしは、藍圭様に幸せにしていただくのを、おとなしく待っているような深窓の姫ではございませんわ。二人の力を合わせて晟藍国を盛り立て……。幸せになりましょう?」


「っ! はいっ、はい……っ!」


 息を飲んだ藍圭が、ぎゅっと初華にしがみつく。初華が優しく小さな身体を抱きとめた。


 ぐすっと鼻をすする音に視線を向ければ、魏角と浬角の親子が、顔を真っ赤にして涙をこらえている。二人とも顔が厳ついせいで、泣くまいと必死でこらえている姿は、憤怒をこらえているようにも見える。


 まだ幼いとはいえ、藍圭は泣き顔を見られたくはないだろう。龍翔が抱きしめあう初華と藍圭からそっと視線を外すと、同じように顔を背けた玲泉と目が合った。


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