101 どれほど窮していようと、他の花で渇きを癒そうなどとは思わん その4
龍翔に渡さねばならぬものを思い出し、声を上げる。
「あ、あの……っ。私、龍翔様にお渡ししたいものが……」
「渡したいもの?」
いぶかしげに繰り返した龍翔にこくんと頷き、黒曜石の瞳を見上げる。
「ぜ、ぜんぜん大したものじゃなくて、申し訳ないくらいなんですけれど……。あの、取ってきたいのでお放し願えませんか……?」
寝台で龍翔に抱きしめられているなんて、心臓に悪いことこの上ない。
もぞもぞと身動ぎすると、「仕方がないな」と苦笑した龍翔が、明珠の上からどいてくれる。
そそくさと寝台を下りた明珠は、龍翔を待っている間、張宇と書類仕事をしていた卓に小走りに駆け寄った。
玲泉の来訪も、龍翔の帰還も予想外のことだったので、卓の上は、冊子や書きつけを広げたままになっている。
「えっと、確かこの辺りに……。あった!」
作業をしている間に、巻物と巻物の間に挟まってしまっていた一枚の紙を引っ張り出す。
無地だが、薄紅色に着色された上質な紙は、わざわざ張宇が用意してくれたものだ。
本当は、玲泉のようにちゃんと文箱に入れるべきなのかもしれないが……。文箱なんて持っていないので、どうしようもない。
渡そうと寝台を振り返った明珠は、龍翔の姿を見てびっくりした。
「なっ!? どうなさったんですか!?」
帯をほどいた龍翔が、一番上に纏っていた見事な刺繍がほどこされた絹の上衣を脱いでいる。まだ下に着ているとはいえ、ふだんの龍翔なら、明珠の前で着替えることなど、決してしないというのに。
反射的に視線を逸らすが、ばさりと絹の衣が無造作に置かれた音に、はっと我に返る。
高価な衣に変なしわがついては大変だ。
「お貸しください。すぐに畳みますから!」
手の中の折った紙を
「すまん、急に……。どうにも移り香が気になってしまってな……」
龍翔が秀麗な面輪をしかめて詫びる。
確か、前にも似たようなことがあった気がする。
思い出した拍子に、その後、酔った龍翔に抱き上げられ、寝台に連れ込まれたことまで思い出してしまい、あわてて記憶を封印する。
あの時の龍翔は、ひどく酒に酔っていたせいで、あんなことをしたのだ。主人の失態を思い返すなんてよろしくない。
「ほ、他の方の香が気になるなんて、龍翔様は鼻がよいんですねっ。私は甘くていい薫りだと思いましたけど……」
ごまかすように早口に告げると、なぜか龍翔がきつく眉を寄せた。
「当たり前だ。お前以外の移り香など……。すぐさま消してしまいたいに決まっているだろう? それに、甘くてよい薫りだというのなら」
不意に手を伸ばした龍翔が、明珠の腕を掴んで抱き寄せる。
「わたしにとっては、お前の薫りが、一番甘くて、心地よい」
すん、と鼻を鳴らされ、羞恥に顔が熱くなる。
「な、何をおっしゃるんですか!? そもそも、私は香油などつけておりません!」
「ああ、知っている。だが、香油などつけずとも、お前は十分に
冗談だとしても、恥ずかしいので放してほしい。
ぐいぐいと押し返すと、
「ところで、わたしに渡したいものとは……? 見たところ、手に何も持っていないようだが」
と不思議そうに問われた。
「あ、その……」
着物の合わせに挟んでいた紙を取り出す。とっさに入れたが、折れたりしていなくてよかった。
「あ、あのっ、本当に大したものでなくて、申し訳限りない限りなんですけど……」
先に詫びながらそっと紙を差し出すと、龍翔が目を瞬かせた。
「もしや、これは……」
「り、龍翔様へのお手紙ですっ。で、でも、何を書いたらよいかわからなくて、ほんとに大したことを書けてないんですけれど……。文箱だって――」
用意できずにすみません、と謝るより早く、ぎゅっと強く抱きしめられる。
「ふぇっ!?」
「わたしのわがままを覚えていてくれたのだな。ありがとう。……嬉しい」
「そ、そりゃあ、龍翔様にお願いされたことですから……っ。というか、お放しくださいっ! 手紙がよれてしまいますっ!」
あわあわと告げると、龍翔がぱっと腕を緩めてくれた。
「確かに、せっかくお前から初めてもらう手紙がよれては、悔やみきれん」
大真面目な表情で告げた龍翔が、左手は明珠の背に回したまま、右手で明珠が差し出す手紙を受け取り、器用に広げる。
てっきり放してもらえると思っていた明珠は、あわてて声を上げた。
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