101 どれほど窮していようと、他の花で渇きを癒そうなどとは思わん その1


「玲泉! ただちに明順から離れよ!」


 廊下の向こうから響いた龍翔の厳しい声音に、明珠に手を差し伸べていた玲泉の動きが止まる。


 その隙を縫うように駆け寄ってきた龍翔が、玲泉と明珠の間に割って入ると同時に、玲泉の手を叩き落とす。


 かと思うと、明珠はぐいと腕を引かれ、抱き寄せられた。


「ひゃあっ!?」


 張宇の陰から顔を覗かせていた明珠は、突然抱き寄せられ、すっとんきょうな声を上げる。


「り、龍翔様!? いったい……っ!?」


 だが、龍翔は明珠の声も聞こえていないかのように、この上なく険しい表情で玲泉を睨みつけている。


「わたしの大切な従者に手を出すのは許さん! どんな甘言でたぶらかす気だ!?」


 聞いている明珠の心まで凍りつきそうな怒りに満ちた声。


 だが、玲泉は龍翔の姿を見た時こそ、驚いた顔をしていたが、すぐさま怒りなどどこ吹く風であでやかに微笑んだ。


「おや、龍翔殿下。来られるのがやけにお早いのではありませんか? 芙蓮姫様と睦み合うのはもうよろしいので?」


「ふざけたことを抜かすな! わたしが明順を裏切るようなことをするはずがなかろう!?」


 からかうような玲泉の声音に、龍翔が目を吊り上げる。明珠も驚いて主を見上げた。


「あのっ、本当によろしかったんですか!? 芙蓮姫様ともっとお過ごしになられなくて……っ」


「明順っ!?」


 問われた龍翔が愕然がくぜんとした顔になる。玲泉が楽しげにくつくつと喉を鳴らした。


「ほら。明順もそう申しておりますよ。いやはや、裏切り者の末路は憐れでございますねぇ」


「違うのだ、明順! 信じてくれ! わたしは芙蓮姫とは何も……っ!」


 抱きしめていた腕をほどき、明珠の両肩を掴んで必死に訴える龍翔に、明珠は「ええっ!?」と声を上げる。


「で、では、芙蓮姫様はお味方になっていただけなかったのですか……っ!?」


 藍圭がどれほど哀しむことだろう。

 しょぼんと肩を落とした明珠に、龍翔が「待て……」といぶかしげな声を上げる。


「明順。お前は、わたしが芙蓮姫と何をしていたと思っておるのだ?」


「えっ、藍圭陛下のお味方になってくださるよう、説得なさってらしたんですよね? そのために、芙蓮姫様と仲良くなさっていたのだと……。玲泉様も、そうおっしゃってましたし……」


「ええ。わたしははっきりと言いましたよ。「睦み合っていらっしゃる」と。……残念極まりないことに、純真な明順には通じませんでしたが……」


 玲泉がふぅ、と残念そうに吐息する。


「お前の戯言たわごとで明順の耳をけがすなと言っているだろう!?」


 玲泉を怒鳴りつけた龍翔が、明珠に向き直り、安心させるように微笑む。


「大丈夫だ、明順。芙蓮姫は、藍圭陛下のお味方となられた。その証拠に、今は藍圭陛下や初華と、雷炎殿下の出迎えについて打ち合わせをしておるぞ?」


「そうなんですね! よかったぁ……っ!」


 龍翔の言葉に、心の底から安堵する。


 不幸な行き違いがあったようだが、姉弟が協力しあえるようになって、本当によかった。


 うる、と目を潤ませた明珠の耳に、玲泉の楽しげな声が届く。


「では、御婚約の発表は、雷炎殿下がご訪問なされた際に、ということですか?」


「そのような発表が行われることはない! 戯言もいい加減にしろっ!」


 刃のような視線で玲泉を睨みつけた龍翔が、厳しい声音で玲泉を糾弾する。


「芙蓮姫を王宮へ連れてきたのはよいが、同時に卑劣極まりない罠を仕掛けおって……っ! わたしがお前の計略などにまんまとはまると思うたか! あまりわたしを侮るな! おぬしが差し添え人でなかったら、即刻斬り捨てていたところだ!」


 罠とはいったい何だろう。なぜ、これほど龍翔が激昂しているのかわからず、不安を隠せず龍翔を見上げた明珠の耳に、玲泉の深い嘆息が届く。


「左様でございますね……。わたしが誤っておりました……」


 聞く者の心まで痛くなるような、底知れぬ後悔を宿した声音を発した玲泉が、肩を落としてうなだれる。


「愛らしい花を前に、常にかつえてらっしゃる殿下のこと。たとえ他の花であろうとも、容易く手折れる花を目の前に供されれば、おぼれてしまわれると思っておりましたのに、まさか自制されるとは……。明順への想いの深さを見誤っておりました……」


「貴様……っ!」

 ぎり、と龍翔が歯ぎしりをする。


 龍翔が玲泉に斬りかかるのではないかと、明珠は一瞬、本気で心配になった。


「当たり前だろう!? たとえ、どれほどきゅうしていようと……。他の花で渇きを癒そうなどとは思わん!」


 雷鳴のような龍翔の怒声にも、玲泉は落ち着き払って首肯する。


「龍翔殿下のご意志の固さは、今回のことでわたしも重々承知いたしました。此度こたびはわたしの策に不備がございました。これは……。もっと腰を据えて攻略に取りかからねばなりませんね」


「玲泉。おぬしがどのような策をろうしようと、手に入れられることは決してないと知れ」


「ひゃっ!?」


 鋼のように硬い声音で告げると同時に、ぐいと龍翔に抱き寄せられる。


「試しもせずに、わたしが退くとお思いですか? それこそ、甘い見通しでございますね」


 挑発的に唇を吊り上げた玲泉が、龍翔と真っ向から睨み合う。


 まるで、不可視の剣で斬り結んでいるかのように、どちらの表情も険しく、厳しい。間にいる明珠は、ただ身を強張らせ、震えることしかできない。


 と、吐息とともに先に視線を外したのは玲泉だった。


「どうやら、今回はこれ以上、長居しても何の益もないようです。ここはいったん退いて、策を練り直すといたしましょう」


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