100 わたくしが、何も用意していないとお思いですの? その3


「よろしいんですのよ。義姉上様のお好きな道をお選びくださって。藍圭陛下のお味方に、なんて強制はいたしませんわ」


「え……?」


 まさか、選択の余地を与えられるとは思っていなかったのだろう。芙蓮が呆けた声を上げる。


 そんな芙蓮を見つめ、初華が幼子に言い含めるように優しい声音で告げる。


「だって、無理強いしたとしても、ひずみはいつか大きくなって跳ね返ってくるものでしょう? もちろん、義姉上様は泥船ではなくれっきとした船を選ぶ賢明な判断をしてくださるものと期待しておりますけれど……。ですが、無理強いはいたしませんわ。むしろ、早めにどんなお考えをお持ちの方か、判断を下せたほうが、もしやすいでしょうし」


 「対処」に思わせぶりな響きを纏わせ、初華が告げる。


 はたから見れば、初華はにこやかに話しているとしか見えないだろう。


 が、冷や汗を流す芙蓮は、首元に抜身の剣を突きつけられている心地になっているに違いない。


 芙蓮の頭の中で、「対処」をどんな意味に捉えているか知らないが……。処刑か、暗殺か、他国への追放か、ろくでもないことを考えているのは確かだ。


 兄である龍翔は、初華がそのようなことをするはずがないと知っているが、わざわざ芙蓮に教えてやる義理はない。


 が、このまま芙蓮に恐怖を与え続けていれば、我に返った時に芙蓮の恨みを買ってしまうのではないかと内心で心配していると。


 不意に、初華が口元をほころばせた。


「誤解しないでくださいませ。芙蓮姫様はわたくしの大切な藍圭陛下の血の分けた義姉上様ですもの。叶うなら幸せになっていただきたいと……。義妹として、そう願っておりますのよ?」


「え……?」


 芙蓮が信じられぬと言いたげに、胡乱うろんな視線を初華に向ける。

 かまわず初華が笑顔で続けた。


「芙蓮姫様はご存じでいらっしゃるかしら? 震雷国の雷炎殿下が晟都へ来られようとしているという報告が入っておりますのよ。雷炎殿下がいらっしゃったら、王宮でおもてなしをする予定ですの。雷炎殿下はお兄様と近しいお年頃。お兄様と同じく、まだ独り身でいらっしゃるそうですし……」


 初華が芙蓮がに思わせぶりな視線を送る。


「まもなく正妃になるとはいえ、わたくしは晟藍国へ来てからまだ日が浅い身。晟藍国のしきたりにうといところも多々ありますし、義姉上様が一緒におもてなしをしてくださったら、たいへん心強いのですけれど……?」


「雷炎殿下が……?」


 かすれた声で呟いた芙蓮の目に、徐々に光が戻ってくる。


「雷炎殿下でしたら、二年前の父上の即位二十周年の式典の際にお会いしたことがありますわ! 野性的な面持ちの偉丈夫で……っ!」


 話すうちに、芙蓮の表情が輝きを帯びてくる。きっと、荘内では雷炎の隣に立つ己の姿を想像しているに違いない。先ほどまで龍翔の妻の座を狙っていたというのに、早くも標的を変えたらしい。驚くほどの変わり身の早さだ。


 いや、うまく雷炎へと芙蓮の興味を誘導した初華の手腕を褒めるべきか。


「まあっ! 義姉上様も雷炎殿下とお会いなされたことがおありですのね! 雷炎殿下をお迎えするために、ぜひともお力を貸していただきとうございます!」


 胸の前でぱちりと手を打ち合わせた初華が弾んだ声を上げる。打ち解けた様子の初華に、芙蓮もようやく表情を緩めた。


「そ、そうね。どうしてもと言うのでしたら、力を貸してさしあげないこともありませんわ」


 龍翔から見れば、滑稽こっけい極まりないが、あくまでも自分のほうが上だと誇示するように、芙蓮が胸を張る。が、それすらも初華の術中なのだろう。


「ありがとうございます! では、さっそくお教えくださいませ!」


 初華が藍圭の手を引いて、龍翔達の向かいの長椅子に座る。


「前国王陛下の治世二十周年の式典とおっしゃられましたが、どのような式典だったのございましょう? 豊かな晟藍国のことですもの。きっと素晴らしく華やかな式典だったことでしょうね!」


 初華が興味津々と言った様子で芙蓮へ身を乗り出す。


「もちろんですわ。あの時は華揺河に錦で飾ったあまたの船を並べて……」


 すっかりその気になった芙蓮が、自慢げに語り始める。


「まあっ、素晴らしいですわね! もっとくわしくお聞きしたいのですけれど……。せっかくの機会ですもの、お茶を楽しみながら、ゆっくりとお伺いしたいですわ」


 芙蓮が言葉を切ったところで、するりと割って入った初華が、龍翔に視線を向ける。


「お兄様。義姉上様よりお教えを請うのは、わたくしにお任せ下さいませ。お兄様は差し添え人としてのお役目がおありでしょう?」


「ああ。初華、感謝する」


 気の利く妹に、心からの感謝を告げて立ち上がる。


 さとい初華のことだ。龍翔が内心、じりじりと焦燥にかれていたのに気づいていたのだろう。


「では、藍圭陛下。これにて失礼いたします」


 藍圭に一礼して、さっときびすを返す。


 平静を装っていられたのは、部屋を出て扉を閉めるまでで限界だった。


 無人の廊下に出た途端、龍翔は弾かれたように駆けだした。


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