100 わたくしが、何も用意していないとお思いですの? その1


「わたくしが、何も用意していないとお思いですの?」


 挑むように龍翔に告げた芙蓮が、歪んだ笑みを見せる。


「……それは、どういう意味ですか?」


 芙蓮を刺激しないよう、龍翔はできるだけ穏やかな声で問う。が、無駄なあがきであったらしい。


 芙蓮が「おほほほほ」と妄執にひび割れた笑い声を上げる。


「言を翻すなら今ですわよ、殿下。わたくしの前にひざまずいて、妻になってほしいとおっしゃってくださるのなら、殿下の名誉に傷はつきませんわ。わたくしも、夫となられる御方に悪評が立つのは忍びないですもの。ですが、わたくしに求婚してくださらないというのなら――」


 芙蓮の瞳が、くらい炎を宿す。


「殿下がわたくしをめとらざるを得ないようにするだけですわ」


 芙蓮の口元が歪んだ愉悦に彩られる。


「この部屋にいるのは、殿下とわたくしの二人きり。もしここでわたくしが悲鳴を上げ、龍翔殿下に襲われたと涙ながらに訴えたら、聞く者は皆、わたくしの言を信じることでしょうね。龍翔殿下はこれほどたくましく、お若いのですもの。密室に二人きりで異国の姫に涙ながらに頼られれば、理性のたがが緩んでしまっても仕方がありませんわ」


「わたしは姫には指一本、手を出していないというのに……。そのような嘘が、まかり通ると?」


 不快感に、ほんのわずかに声に圧を混ぜる。だが、芙蓮にはそれで十分だったらしい。「ひっ」と喉の奥で潰れたような悲鳴を上げる。


 が、ここまで来て、今さら引けぬらしい。芙蓮が取りつくろうように、強張った笑みを浮かべる。


「襲っていないと無実を訴える異国の皇子と、襲われたと涙ながらに訴える自国の姫。どちらのほうが、王宮の者達に受け入れられるとお思いですか? さらに言うなら、来られて間もない龍翔殿下のお人柄を知る者など、ほとんどおりませんでしょう? それに、訴えるのはわたくしだけではありませんもの。わたくしの侍女達も、部屋の中から殿下のお声や、わたくしのすすり泣きが聞こえたと証言するでしょう。殿下は、最初から手詰まりでしたのよ」


 己の勝利を確信した芙蓮が、体勢を立て直して婉然えんぜんと微笑む。


「そろそろお覚悟を決められてはいかがですか? さあ、おっしゃってくださいな。わたくしを妻にすると――」


 龍翔の胸元に手を這わせた芙蓮が、身を寄せようとしてくる。細い肩に手を置き、遮ろうとして――。


「姉上! いい加減になさってくださいっ!」


 扉が開く音と同時に、高く澄んだ少年の声が響く。


 驚愕に顔を強張らせた芙蓮が声の主を振り返る。龍翔もまた、天井から垂らされた壁際の幕を振り向いた。


 幕の後ろに隠されていた内扉が大きく開け放たれ、幕がめくれている。


 戸口に立つのは、隣室で控えていた藍圭と初華だ。


「姉上! もうおやめください! 虚言をろうし、脅迫してまで義兄上あにうえの妻の座に無理やりおさまろうとするなど……っ! 晟藍国の王族としての誇りはないのですか!? 血を分けた弟して情けないです!」


 羞恥のためか怒りのためか、藍圭は幼い面輪を紅潮させ、厳しいまなざしで腹違いの姉を糾弾する。


 藍圭と初華が現れた時こそ驚きに固まっていた芙蓮だが、弟からの叱責に、すぐに目の中に怒りの炎が灯る。


「恥ずかしい? それを言うならお互い様でしょう!? わたくしと龍翔殿下の話し合いを隠れて盗み聞きしていただなんて……っ! それこそ、一国の王がすることなの!?」


「わたしが藍圭陛下にお願いして、この部屋をお借りし、隣室にお控えいただいたのです。もしかしたら。芙蓮姫が何か企んでらっしゃるかもしれない、と」


 自分のことを棚に上げて藍圭を責める芙蓮に、龍翔は即座に口をはさむ。弟が姉に不当な理由で責められているところなど見ていられない。


 龍翔の言葉に、芙蓮が愕然がくぜんとした表情になる。


「では、龍翔殿下は最初からわたくしを罠にはめる気でいらしたの!? 乙女の純情をもてあそぶなんて、なんて酷い……っ!」


 芙蓮が身をよじらせて涙ぐむ。


 脅迫まがいに無理やり婚姻を結ぼうとして、純情もないもないだろうと、龍翔は内心で憮然ぶぜんとする。


 幼くして母を亡くしたせいか、明珠に限らず、龍翔はもともと女人の涙が苦手だ。


 だが、自然な心の動きでこぼれ出たものならともかく、泣き落そうとしてくる不届き者にまで甘い顔を見せてやる気はない。


「芙蓉姫もわたしを罠にはめようとしていたのですから、お互い様でしょう? 扉の前にいた侍女達の身柄も、すでに押さえてあります。芙蓮姫が今後、どのような嘘を広めようとしたところで、追従する者はおりませんよ。それとも――」


 龍翔はあえて挑発的に唇を吊り上げる。


「たったお一人の芙蓮姫の証言と、藍圭陛下をお味方につけたわたしの言、どちらがより信じられるか、試してみますか?」


「っ!」


 唇を噛みしめた芙蓮が、憎々しげに龍翔を睨みつける。


 そこには、先ほどまで龍翔を籠絡ろうらくしようとしていた甘やかな気配は微塵みじんもない。


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