99 何を対価として払えば、そこを通してもらえるかな? その5


 告げた瞬間、明順が鋭く息を飲む。


「き、ききき求婚、ですか……っ!? その……っ!?」


 おろおろと、見ているほうが気の毒になるほどうろたえた明順が、まるでお説教を待つ子どものような表情でこわごわと玲泉を見上げる。


「あ、あれはその……。玲泉様のご冗談だったんじゃ……?」


「冗談などではないよ」

 笑顔のまま、間髪入れずに否定する。


「龍翔殿下にそう言い含められたのかな?」


「ち、違います!」

 ぷるぷると明順が必死な様子でかぶりを振る。


「だ、だって、私のような何のとりえもない貧乏人が、蛟家の嫡男でいらっしゃる玲泉様に、だなんて……っ! そ、そんなの、天地がひっくり返ってもありえないと思いますっ!」


 明順がきっぱりと断言する。


 ふつうなら、浮かれて夢見心地になるだろうに……。謙虚なところも今まで遊び相手にした者達の中にいなかった気質で愛らしいが、信じてもらえないのはさすがに困る。


 床に片膝をつこうとすると、警戒したままの張宇が何事かと身構えた。が、かまわず片膝をつくと、玲泉は張宇の陰に隠れたままの明順へ右手を差し伸べる。


「きみが何のとりえもないなんて、とんでもない。わたしが不調に陥らずにすむというだけで、わたしにとって君は得難い女人なんだよ。わたしが妻として求める女人はきみだけだ。お願いだ明順。どうか、わたしの求婚を受け入れてくれないかい?」


 心の底からの願いを込めて、真摯に語りかける。


 二十四年の人生で初めて出逢ったふれることができる家族以外の女人。


 女人にふれた途端、言いようのない不調に襲われる体質を知って以来、玲泉は諦めとともに生きてきた。


 名門・蛟家の嫡男として生まれ、財貨も容貌も、能力にも恵まれて生まれながら――。


 ただひとつ、女人を愛し、我が子を持つという一点だけにおいて、自分はその辺の取るに足らぬ男にさえ、劣るのだと。


 美青年や美少年相手に浮名を流していたのは、いま思えばその反動だったのかもしれない。


 女人などにふれなくとも、自分は十二分に人生を楽しみ、謳歌おうかしているのだと。


 誰とは言わず見せつけるかのように、玲泉は蛟家の名声や玲泉自身の美貌に引きつけられてくる者のうち、己の審美眼にかなう者はことごとく遊び相手にしてきた。


 相手も遊びだろうと、はたまたのぼせ上って本気になろうと関係ない。


 玲泉には、すべて遊び以外の何物でもない。どれほど肌を重ねようと――決して実のなることのない徒花あだばななのだから。


 そんな玲泉にとって、明順の存在は奇跡以外の何物でもない。


 第二皇子である龍翔と事を構える事態など、ほんの些事さじだ。何をなげうってもかまわない。


 それほどに、明順を手に入れたい。


「明順。わたしの妻になってくれたら、必ずきみを幸せにすると誓おう。どうかこの手をとって、わたしの求婚に応えておくれ」


 張宇の背中にしがみつき、目をみはって固まる明順にふたたび告げると、薄紅色の唇がわなないた。柔らかそうな唇が震えながらゆっくりと動き。


「……え……? き、ききききき求婚って、ほんとにご冗談じゃないんですか……!?」


 いまだに玲泉が本気だと信じてくれていない様子の明順の呟きに、玲泉は脱力しそうになった。


「……龍翔殿下から、わたしについてのどんな悪名を吹き込まれたのか知らないけれど、わたしは冗談などで求婚なんてしないよ」


 嘆息まじりに告げると、明順がぷるぷるとかぶりを振った。


「ち、違います! 龍翔様は他の方のことを悪く言ったりなんてなさいません! ただ、玲泉様のような高貴な方が、わ、私なんかにと、どうしても信じられなくて……っ」


 明順の視線がおろおろとさまよう。


「明順」


 優しく呼びかけ、明順の視線を引き寄せた玲泉はあでやかに微笑んでみせた。


「さっきも言っただろう。身分など関係ない。きみはわたしが唯一ふれられる女人なのだから。きみ以外にわたしの妻となれる者はいないんだよ? きみには、わたしの妻となり、蛟家の未来の女主人となる価値がある」


「……価値……」


 戸惑った声でおうむ返しに呟いた明順に大きく頷く。


 明順が庶民感覚にどっぷり浸っているのは、ちょっとした菓子でも嬉しそうに食べる姿から把握している。


 きっと明順は、玲泉の求婚を受ければどんな素晴らしい生活が待っているのか、想像が及んでいないに違いない。


 玲泉は幼子に語りかけるように、甘い声を紡ぐ。


「想像してごらん。わたしの求婚を受けてくれれば、どんな豪華な食事も菓子も、美しい衣装やきらびやかな宝石も、思いのままだ。ゆくゆくは蛟家の女主人として、好きなだけ権勢を振るうといい。後宮にいらしゃる妃嬪ひひんにも負けぬ贅沢ぜいたくな暮らしを保証するよ」


 明順のつぶらな瞳が、驚愕にさらに円くなる。と。


「む、無理です! わ、私のような貧乏人が高貴な蛟家へ嫁いで、ちゃんとやっていけるはずがありませんっ!」


 怪談でも聞いたように、震えながらかぶりを振る。


 てっきり喜び勇んで手を取ってくれるものを思っていた玲泉は、呆気あっけにとられた。


「明順? 心配はいらないよ。きみに無理をさせる気はない。何であろうと、きみが望むままにしよう表舞台に出るのが嫌だというのなら、それでもかまわない。屋敷の奥にきみのための棟を建てよう。楽師でも劇団でも、好きなものを呼んで、毎日楽しく、悠々自適に暮らせばいい。ああ、それともしゅうとしゅうとめのことを心配しているのかな? 大丈夫だよ。父上も母上も、わたしが一生、独り身でいるものと嘆き悲しんでいたんだ。そんなわたしにこんな愛らしい娘が嫁入りしてくれるとなれば、嬉し涙を流して喜ぶに違いないよ」


「ち、違うんです……っ。その、そうじゃなくて……っ」


 言い淀んだ明順がぎゅっと衣を掴んで張宇を見上げ、次いで玲泉の背後でやりとりを見守っている季白と安理を見やる。


 ふぅ、と季白が大きな溜息をついた。


「玲泉様。明順は求婚を受ける気はないそうですよ。まあ、龍翔様のような素晴らしい主にお仕えしていれば、離れる気になれぬのは自明の理ですが。ともあれ、これで気がお済みになったでしょう? お引き取り願えますか?」


「龍翔殿下が素晴らしい主? 今まさに明順を裏切っているというのに?」


 季白の言葉に、思わず冷笑がこぼれ出る。


「明順。きみが素直にわたしの求婚を受けてくれるなら、きみを哀しませることは言いたくなかったんだけれどね」


 明順を哀しませたくはない。が、その目が曇っているのなら、玲泉が真実を告げてやらねば。


「龍翔殿下はいま――まさに、芙蓮姫とむつみ合っていらっしゃるんだよ」


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