99 何を対価として払えば、そこを通してもらえるかな? その2


「そちらにとっては、明順は愛らしいただの従者だが、わたしにとっては、たったひとりふれられる奇跡の女人だからね。決して得られぬと思っていた生涯の伴侶が手に入るのなら、後ろ盾になることなど、大したことではないよ」


「ですが、あまりにこちらにとって都合がよすぎて……。不安を覚えますね」


 なるほど、季白の今ひとつ浮かぬ顔の原因はそこか、と得心する。


 人間誰しも、夢にも思っていなかったほどの幸運が急に舞いこめば、戸惑い、警戒してしまうのも当然のことだ。龍翔のことさえ絡まなければ、理知的で現実的な季白らしい。


「なるほど。では、どうずれば不安を取りのぞけるのか、教えてもらえるかい? 今すぐ後ろ盾を約束する書状を書いて、王都の父上へ《渡風蟲》で送ろうか?」


 おどけるような口調で提案する。ここで尻込みされて、取引がおじゃんになってはかなわない。


「いえ。玲泉様を信用していないわけではないのです。ただ……」

 季白が迷うように切れ長の目を伏せる。


「ただ、何だい?」


 季白の不安をほぐすように、柔らかに声をかける。あと一押しというところで、言を翻されてはたまらない。


 玲泉の声に、背中を押されたように季白が面輪を上げる。切れ長の目には、すがるような光が宿っていた。


「以前、玲泉様がわたしに同じ問いをしてくださった時、明順が初物であってもそうでなかろうとも、どちらでもよいとおっしゃっていましたね? そのお心は、今もお変わりありませんか?」


 問われた瞬間、なぜか玲泉の心がとどろく。


 季白が言う通り、以前、明順が生娘でなかった場合も条件は同じかと問われた時、玲泉は確かに、生娘であろうとなかろうとこだわらないと言い切った。むしろ、龍翔が床の作法を教授しておいてくれれば助かるとまで告げた。だというのに。


 いま、同じ内容を問われて、なぜ心の奥底にもやりとした感情が湧きあがってくるのか。


「ああ、確かに言ったね。その答えは今も変わらないよ」


 ここで否と言うことはできない。

 それに、明順が生娘であろうとなかろうと、最終的に玲泉の手に入れば、それでいいのだ。


 ざわつく心を抑え込み、玲泉は首をかしげて季白を見返す。


「そう尋ねるということは……。ついに龍翔殿下は明順と床をともになされたということかな?」


 脳裏によぎるのは、初めて明順へと文を送った際に、贈り物として同封した絹の手巾に刺繍させた双頭蓮だ。


 龍翔をあおる気で双頭蓮の手巾を明順へ贈ったが、果たして龍翔は何を思ったのだろう。


 玲泉に先んじて明順の花を摘んだのだと愉悦にひたったのだとしたら――聖人君子ぶった秀麗な面輪を、殴りつけてやりたい。


 滅多に覚えた経験のない凶暴な感情に支配されそうになった玲泉は、季白がこぼした深い嘆息に我に返る。


 季白は我が身の不甲斐なさを嘆くかのように、強く拳を握りしめ、肩を震わせていた。


「もしそうであれば、今すぐここで何の憂いもなく明順を引き渡せたというのに……っ! 残念ながらいまだ……っ!」


「……そう、かい」


 ほっとしたような残念なような、自分でもわからぬ感情に揺れながら、玲泉は小さく応じる。


「初物であるかどうかは問わないが、孕まされては困るからね。明順が健康であるなら、それは喜ばしいことだ」


 皇族がその身に宿す《龍》の気は、常人には毒となりうる。

 明順には玲泉の子を産んでもらわねばならぬのだ。健康を害されては困る。


 そのために、龍翔に《龍》の気の毒性のことを伝えて、牽制けんせいしたのだから。


 牽制が効いているのは喜ばしいが、まさかまだ明順に手を出していなかったとは。


 ひょっとすると、玲泉がお王宮にいない間に何らかの進展があるやもしれぬと覚悟していたのだが……。まったく、龍翔の自制心には恐れ入る。


 ひょっとして、と、ふと心に湧きあがった懸念を、玲泉は黙殺する。いま玲泉が気をもんでも仕方のないことだ。芙蓮の手腕に賭けるしかない。


 それよりも、玲泉は己のすべきことをしなくては。


「さて、季白殿。そろそろわたしの問いに対する返事をもらおうか」


 いつまでもここでぐずぐずしている気はない。

 語気を強めた玲泉に、うつむいたまま季白が悔しげに拳を握りしめる。


「わたし自身は、玲泉様のお話を、願ってもないことだと思っております。が、こちらも今すぐ応じるわけにはいかぬ事情があるのです……っ!」


「事情? 何だい、それは? 蛟家の後ろ盾を得る以上に重要なことが、そうあるとは思えないけどね。それとも、いま明順がいなくなれば、龍翔殿下はお心が乱れるあまり、差し添え人の務めすら果たせなくなってしまうとでも?」


「その可能性は否定できません。が、それ以上にわたしが心配しているのは、龍翔様が今後、女人に対して隔意かくいいだかれないかということなのです……」


 視線を上げ、玲泉を見る季白の瞳には、我が子を案じる慈母のような表情が浮かんでいた。


「龍翔様はあの通り、非常に高潔で自制心にあふれた御方でいらっしゃいます。ご公務に真摯に取り組まれるあまり、今まで一度も女人との浮いた話ひとつ出たことがございません。もちろん、その高潔なご姿勢は感服するほかないのですけれども! さすがはわたしが心酔する龍翔様でございます!」


 季白の表情が恍惚に輝き始める。


「ですが、龍翔様の今後のことを考えますと、有力な名家から、龍翔様にふさわしい素晴らしいご令嬢をめとらねばならぬことは必至! 本来ならば、龍翔様がお心を寄せるのは見目麗しくしとやかで教養深く慈愛にあふれる素晴らしいご令嬢であるはずでしたのに……っ! まさか、あんな天然鈍感娘なんぞに……っ!」


 何やらふだんの鬱屈うっくつがあふれてきたのか、季白の声と表情が不穏なものになってくる。ぎりぎりと歯ぎしりする背中には、雷鳴轟く暗雲が立ち込めているかのようだ。


 隣の安理がぶひゃっと吹き出し、


「ちょっ、季白サン! 私情が! 抑えきれない不満がダダ洩れになってるっスよ!」


 げらげらと笑いながら思いっきり突っ込んでいる。


「……失礼いたしました。わたしとしたことが、龍翔様を思うあまり、つい……」


 こほん、と取りつくろうように咳払いした季白が、ふたたび玲泉を見つめる。


「ともかく! 龍翔様にとって、今回のことは初めてのご経験。思いをげられ、その上で明順に飽きて手放すならともかく、花も摘まぬうちにとんびに横からかっさらわれては、思いがけぬ傷をお心に残し、将来のご結婚に影響が出る可能性がございます! それゆえ、現在の状況では、玲泉様のお申し出を受けることはできません!」


 はっきりきっぱり。季白が拳を握りしめて断言する。


 とんび呼ばわりされた玲泉は、呆れ果てた吐息を洩らした。


「……季白殿。きみ、忠臣というより過保護な母親を名乗ったほうがいいんじゃないかい?」


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