96 二枚の手紙 その1


 龍翔と並んで卓に座った明珠は、玲泉から送られてきた文箱をおそるおそる開けた。


 正直、こんな高価そうな文箱、うっかり落として傷でも着つけたらと思うと、恐ろしくてふれたくもない。


 かぱりと開けた箱の中で文の上に載っていたのは、美しい翡翠色の絹の組紐だった。


 銀糸も混ぜて編まれた組紐は、夏の陽射しを受けてきらきらときらめく華揺河の流れを切り取ったかのようだ。


「わぁ……っ! 綺麗ですねぇ……っ」

 思わず感嘆の声を上げた明珠に対し、龍翔は渋い表情のままだ。


「……玲泉め。贈り物の感性だけは優れているのが腹立たしい……」


「あれ? 今日は文が二通入っていますよ。片方は私宛で、もう一通は龍翔様宛です」


 それぞれに美しい筆跡で宛名が書かれた高級紙を取り出し、龍翔に見せる。


「わたしにも……? ひとまず、お前宛のほうから見てみるか」


「は、はい!」


 頷いてそろそろと手紙を開いた明珠に、龍翔が身を寄せてくる。衣に焚き染められた香の薫りがふわりと揺蕩たゆたった。


「れ、玲泉様のお手紙は、いつも美辞麗句であふれてらっしゃいますね……。本当に、これ、宛名を初華姫様かどなたかと間違ってらっしゃるんじゃないでしょうか……?」


 芙蓉の花のように愛らしいだとか、輝くようなきみの笑顔が見られなくて寂しいだとか、小鳥のさえずりのように耳に心地よい声をずっと聞いていたいだとか、明らかに明珠にはふさわしくない言葉ばかりが並んでいて、読んでいて顔が熱くなると同時に、恐れ多くて逃げ出したい気持ちになる。


「……明珠を的確に褒めたたえている点だけは、認めてやってもよいかと思ったが……。やはり気に食わんな」


 低い声で呟いた龍翔が、やにわに明珠の肩を抱き寄せる。


「ふぇっ!?」


「お前の頬を愛らしく染めるのは、わたしだけでよい」


「あの……っ!? どうなさったんですか!? これでは紙がめくれませんっ!」

 身をよじって抗議するが、龍翔の腕は緩まない。


「ちゃんと承知しておりますから! 玲泉様が、このように思ってもらっしゃらない美辞麗句を書かれているのは、暗号をひそませるためなのでしょう!? 大丈夫です! 自分のことはちゃんとわかっております! 玲泉様の誉め言葉を真に受けたりしませんっ!」


 きっぱりと告げると、龍翔の手がようやく緩んだ。


「釈然とせんが……。まあよい」


「それで、玲泉様は何を龍翔様にお伝えされているのですか?」


 暗号のことは、明珠にはさっぱりわからない。

 すがるように秀麗な面輪を見上げると、「ああ、それは」と、にこりと微笑んだ龍翔が手紙へ視線を落とした。


 至近距離で放たれたまばゆい笑顔に、ぱくりと心臓が跳ねる。毎日顔を合わせているというのに、龍翔に微笑まれると、それだけでどきどきしてしまって困る。


 明珠はあわてて手紙へ目をむけると、龍翔の長い指先が文字を辿っていくのを追う。


「玲泉からの暗号の内容は、調べておくよう申しつけた事柄の返信だ。藍圭陛下がおっしゃっていた通り、前国王陛下が龍華国寄りだった分、瀁淀は震雷国と親しくしていたらしい。が……。瀁淀にとっても、今回の雷炎殿下の来訪は、寝耳に水だったようだ。ひどく泡を食って、雷炎殿下を出迎えるための準備を整えているようだが……」


「龍翔様?」


 考えに沈むように声を途切れさせた龍翔を見上げる。秀麗な面輪に宿る表情は硬い。


「ああいや、魏角将軍が言っていた通り、瀁淀と雷炎殿下が裏で手を組んでいるのだとしたら、瀁淀に何も告げず、雷炎殿下が晟藍国を訪れることに、何の意図があるのかと思ってな。玲泉が調べたのならば、瀁淀が雷炎殿下の来訪を知らなかったのは演技などではなく、真実なのだろう。瀁淀と雷炎殿下は実はさほど深くつながっていないのか、それとも雷炎殿下には別の意図があるのか……。実際に会ってみるまで読めぬ点は多いが、警戒するに越したことはあるまい」


「そ、そうなんですね……」

 明珠は顔を引き締めてこくりと頷く。


 雷炎殿下とは、どんな人物なのだろう。龍翔のように、高潔で誠実な貴公子ならばよいが……。


 瀁淀と手を組んでいるということは、あくどい性格なのだろうか?


「うん? どうした?」

 柔らかく微笑み返されて、いつのまにか龍翔をじっと見上げていたことに気づく。


「い、いえっ! 何でもありませんっ」

 ぷるぷるとかぶりを振り、あわてて手紙に視線を落とす。


「後は……。玲泉も調べているが、瀁淀と富盈ふえいが癒着して汚職をしていた証拠は、まだ見つけられぬようだな。もう少し、時間が欲しいと書いておる」


「玲泉様が調べられても、証拠を見つけられないなんて……。手強い相手なんですね……」


「汚職の証拠を掴まれれば、糾弾は必至だからな。巧妙に隠しているのだろうが……。忌々しいことだ」


 龍翔が珍しく、不快感をあらわにする。


「せっかくの玲泉からの手紙だが、事態を打破できそうな情報は何一つなかったな。報告せよと指示しておった芙蓮姫の人となりについても、まったく書いておらぬし……。彼奴あやつは本当に調べておるのか? よもや、毎日、従者達と遊び暮らしているのではあるまいな?」


「そ、そんなことはないと思いますけれど……。初華姫様と藍圭陛下のために、お力を尽くしてくださるとお約束してくださいましたし!」


 どんどん不機嫌になっていく龍翔に、明珠はあわててもう一通の手紙を差し出す。


「今回は、龍翔様宛のお手紙も入っておりますし、もしかしたら、こちらに大切なことが書いてあるかもしれませんよ?」


「玲泉からわたしへの手紙など……。ろくでもない内容が書かれている気しかせんがな……」


 文句を呟きつつも、手紙を受け取った龍翔が、素早く目を走らせる。


 主人への手紙を従者である明珠が覗き見するわけにはいかない。目をそらした明珠は龍翔が読んでいる間、文箱を眺めて、装飾の見事さにほれぼれと魅入る。蓮の花が装飾された文箱は、見ているだけでうっとりするほど綺麗だ。


 龍翔が読み終えた気配を感じて、隣を振り向いた明珠は首をかしげて尋ねた。


「そちらのお手紙には、どんなことが書かれていたんですか? あっ、もちろん、差しさわりがあるのでしたら、うかがいませんので!」


 あわてて言い足すと、「いや、大丈夫だ」とかぶりを振った龍翔が、明珠の前に手紙を置いてくれた。

 どうやら、明珠も読んでかまわないらしい。


「失礼いたします……」

 断ってから、二枚重ねになった手紙を手に取る。


 一枚目と二枚目で紙が違う、と不思議に思いながら視線を落とすと、一枚目に書かれていたのは、流麗な玲泉の筆跡よりも、さらに細くてなよやかな女文字だった。


「芙蓮姫からの文だ」


「えっ!? そ、そうなんですね!」

 予想外のことに戸惑ったが、龍翔の言葉に納得して読み進める。


 透かし模様が入った美しい紙には、芙蓮姫の心情が切々と綴られていた。


 いわく、藍圭と瀁淀の間に哀しい行き違いがあるのは、藍圭の腹違いの姉として、また瀁汀の婚約者として、非情に心を痛めている。二人が手を取り合って晟藍国を治めていけるよう、橋渡しをしたいが、残念ながら藍圭と自分は姉弟とはいえ、あまり親しく交流してこなかった。また、瀁汀の婚約者である自分の言葉を素直には受け取りにくいだろう。


 初華姫に話すことも考えたが、港での様子を見るに、初華姫は藍圭にかなり肩入れしている様子で、自分の申し出を受け入れてくれるか不安がある。


 そこで、妹を弟をめあわせるもの同士である龍翔殿下に口利きをお願いでしたら……。


 と、弟の身と晟藍国の行く末を案じる気持ちが、なよやかな女文字で、心に迫るような調子で綴られていた。


 二枚目は玲泉から龍翔に宛てた手紙で芙蓮姫の手紙を補足するような内容だった。

 いわく、芙蓮姫はこのように、日々、己の無力さを嘆き悲しまれておられます。芙蓮姫は、しとやかで心映えも優れたお方。ただ、複雑なお立場ゆえ、表立って動くのが難しいのです。


 高潔なお人柄である龍翔殿下ならば、思い悩んでらっしゃる芙蓮姫を見捨てられぬようなことは、きっとなさらぬと信じております。


 龍華国と晟藍国の今後の友好のためにも、龍翔殿下にはぜひ一度、芙蓮姫とお会いになって、姫の不安を取り除いていただきたく……。


 と、こちらも丁寧な文言で龍翔の助力を願っていた。


 もし、龍翔の都合さえ合うのなら、二日後の午後、芙蓮姫を王宮へお連れするので、ぜひとも会って話をしていただきたいと書いてある。


「やっぱり、芙蓮姫も、お心を痛めてらっしゃるんですね。二日後、お会いなさるのでしょう?」


 優しい龍翔が、困っている女人を放っておくとは思えない。


 期待を込めて龍翔を振り仰いだ明珠は、秀麗な面輪に浮かぶ苦い表情にびっくりした。


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