95 まだ伝えられていないことがあってだな……。 その4


「わたしとしては、龍翔様の禁呪さえ解呪できれば、明珠が玲泉様に片づくのは賛成なんですがね」


 季白がさらりととんでもないことを言うが、周康の耳にはろくに入らない。


 代わりとばかりに厳しい声を上げたのは張宇だ。


「おい季白! ろくでもないことを言うな! 龍翔様が聞かれたら、激昂されるどころじゃないぞ! 龍翔様もようやく自覚なされたというのに……! いつか禁呪が解呪できたとしても、龍翔様が明珠を手放されるはずがないだろう!?」


 張宇の発言に、ふたたび耳を疑う。


 新参者の周康ですら、すぐに気づくほど、明珠に対してだけは甘やかな雰囲気をたたえていたというのに……。まさか自覚をしていなかったとは。信じられない。


 衝撃の事実ばかりを矢継ぎ早に告げられ、頭がくらくらする。周康が辿り着いたのは、実は晟都ではなく、夢想の地だったのだろうか。


「すみません……。あまりの事態に、理解が追いつかないのですが……」


 力なく呟いた周康に、張宇が「その気持ちはよくわかる」と言いたげに何度も大きく頷く。


「俺も、聞かされた時はにわかに信じられなかった……。まさか、玲泉様が明珠に求婚されるとは……」


 周康としては、龍翔の無自覚っぷりも大いに信じられないところなのだが、長年、龍翔に仕えている張宇にとっては、彼なりに思うところがあるのだろう。はぁ、と疲れたように張宇が吐息する。


「今は玲泉様が瀁淀の屋敷に滞在されているゆえ落ち着いているが、逃げ場のない船内で明珠にちょっかいを出されていた時は、ほんと大変だったんだぞ……。玲泉様は諦められる気配はないし、そのたびに龍翔様が烈火のごとくお怒りになられて……」


 とっさに周康の脳裏に甦ったのは、乾晶から王都への帰途で、明珠に菓子を渡そうとした時のことだ。


 あの時の周康は、あわよくば明珠に取り入り、彼女を得ることで蚕家の次期当主の座につけないかと画策していた。あの時の周康の中に、権力を求める後ろ暗い心があったのは認める。


 が……。それを抜きにしても、割って入った龍翔の威圧感は、周康に冷や水を浴びせかけ、翻意ほんいを決意させるに十分だった。


 龍のあぎとに自ら首を突っ込みに行くような真似は、もう二度としたくない。


 龍翔の逆鱗にふれるのをいとわぬ玲泉の蛮勇には驚嘆するほかないが、周康としてはできるだけ関わりたくないところだ。


 同じことを考えているのか、季白が眉をひそめて吐息する。


「玲泉様には、『花降り婚』が行われる直前まで、瀁淀の屋敷に滞在していただくのが、最もよいかもしれませんね。いちいち龍翔様のお心を逆撫でされては、『花降り婚』の準備に支障が出ます。まったく。有能なのは認めますが、同時にろくでもない事態を引き起こす方なのですから……」


 蛟家という名家が後ろ盾であるゆえ、あまり表立った事態にはなっていないが、玲泉が流しまくっている浮名のせいで、遊び相手同士が刃傷沙汰になりかけたという噂は、周康も何度も耳にしている。


 いや、第二皇子である龍翔と、蛟家の嫡男である玲泉が真正面からぶつかり合ったら、単なる刃傷沙汰程度では済むまい。周囲も大きく巻き込むとんでもない嵐が起こるだろう。


「……そういえば、お嬢様ご自身はどのようにお考えなのですか?」


 先ほど見た限り、龍翔が明珠を慈しんでいるのは一目瞭然だったが、明珠はというと、龍翔の想いを受け入れて寵妃としてふるまっているようには、とても見えなかった。周康が一緒に旅をしていた頃と、何ひとつ変わりなかったように思われる。


 あの天真爛漫な少女に、龍翔と玲泉を手玉にとって、どちらからも富と権勢を手に入れようとなどという強欲な策がとれるはずがないが……。


 周康の問いに、季白と張宇がふたたび深い溜息をつく。張宇は頭を抱え、季白にいたっては、奇声を上げながら髪をき乱している。


「明珠はその……。天真爛漫なところが、明珠の明珠たる所以ゆえんというか、龍翔様をもってしても変えられないほどの天然というか……」


「まったく! いつになったらあの小娘は男女の機微の一画目を覚えるのか……っ!? 八歳やそこらの子どもじゃないんですよ!? いえ、あの小娘なら、ませている八歳の子どもにすら劣りますね……っ!」


「いや季白。さすがに龍翔様は八歳の子どもに手を出されたりしないぞ……。まあ、こと男女の機微に関しては、八歳の子どもにも負ける可能性があるのは否定しないが……」


 穏やかで控えめな張宇にまでこう言わしめるとは、明珠の天然鈍感っぷりはかなりのものだ。


 正直、周康の目から見ても、あれほど龍翔に慈しまれているのに、その好意に気づいていないのはなぜなのだろうかと、不思議でならない。


「せめて……。玲泉様に狙われているということをちゃんと自覚してくれれば、警護するほうとしても助かるんだが……。無防備すぎてもう、心配この上ないんだ……」


 苦笑しつつ愚痴をこぼす張宇の姿は、まるで妹を心配する兄のようだ。


 明珠に接していると、いつのまにかそんな気持ちになってしまうのは、わからなくもない。


「本当に、あの小娘はどこまでわたしの胃と頭をさいなめば気が済むのか……っ! これが故意だったら、問答無用で叩った斬ってやるところですよ! そうでなくても、叶うならわたし自らがびしばしきたえてやりたいところですがね!」


 張宇が兄ならば、さしずめ季白は厳しいしゅうとめといったところか。言えば烈火のごとく怒り狂うのは間違いないので、口にはしないが。


 張宇が額を押さえ、呆れたように指摘する。


「季白……。正直、お前が鍛えたら、ろくなことにならない未来しか思い描けないんだが……。というか、そもそもそんな時間などないだろう?」


「ですから、「叶えば」と言っているではありませんか。『花降り婚』の準備で時間がないのは、あなたに言われずとも承知しています。婚礼の準備だけでなく、瀁淀を失脚させるための調査、来訪予定の雷炎殿下の対応と、仕事は山とあるのですから。せめて、玲泉様には『花降り婚』が終わるまで、おとなしくしていただきたいところですね」


 窓の外の夕焼け空はよく晴れ、美しい茜色あかねいろに染まっている。


 だが、これから晟都の王宮に巻き起こるだろう嵐の気配を感じ、周康は早くも暗澹あんたんたる心地になった。



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