94 いるはずのない同輩 その1
晟都の港まであとわずかだという船長からの報告に、甲板で《板蟲》の背に乗る
「龍翔殿下より、港の中でも、軍用に使われている場所に近い一画を使用できる許可を得たとうかがっています。停泊はそちらへお願いします」
「へぇ、承知でさぁ。晟都には何度も来ておりやす。それに、軍船が目印になるんなら、広い港でも迷いっこありませんや」
淡閲の総督が推薦してくれただけあって、口調こそぞんざいだが、操船の腕は確かなものだ。
周康が乗る船の後ろには、木材を小山のように積んだ平底船が、縄でつながれて何隻も連なっているが、船長は川の流れを見事に読み、一度も船同士を衝突させたりすることなく、操船の指示を出している。
船酔いがひどい周康に、
「物心ついた時から船の上にいる俺にゃあ、船酔いってのがどんなものかわからねぇが……。酔う奴ぁ、船に乗ってるんじゃなくて乗せられてるから酔うんだ。だんなは術師サマなんだろ? いっそのこと、空を飛んじゃあどうだい?」
と、《板蟲》を使う
船長の言う通り、板蟲に乗っていれば、船の揺れを感じることがないので、船酔いすることもない。
なぜ今まで思いつかなかったのかと、己の愚かさを悔やむほどだ。
もし、船旅に入ってすぐに思いついていれば、もしかしたら淡閲で賊に傷を負わされる事態も免れていたかもしれないと思うと、苦い思いが胸の中で渦を巻く。
無意識に右手で左腕を握りしめる。
袖の下に残るのは、賊の毒刃に斬られた跡だ。《癒蟲》で治したものの、先に毒を抜かなければならなかったため、朱で線を引いたような傷跡が薄く残ってしまった。
が、この程度の傷など、何ほどのものか。女人でもあるまいし、身体の傷の一つや二つ、気にするようなことではない。
それよりも、明珠に怪我がなくて本当によかった。その点に関しては、駆けつけてくれた玲泉に感謝しかない。
万が一、周康ではなく明珠が毒を塗った刃で斬りつけられていたらと思うと……。
明珠を慈しんでいる龍翔がどれほど激怒するかと考えるだけで、背筋が凍り、全身に震えが走る。
龍翔の逆鱗を逆撫でするなど、周康は絶対に御免だ。
明珠の実父であり、周康の師である遼淵も、周康への評価を下げるに違いない。
その点においては、明珠を庇っての負傷というのは、不幸中の幸いだったかもしれない。少なくとも周康の治療と世話を淡閲総督に託した龍翔は、怒るどころか、よく明珠を庇ってくれたと感謝してくれたほどだし、淡閲総督も、第二皇子から預かった大切な客として周康を厚遇してくれた。
それだけでなく、今こうして淡閲からの荷を積んだ船の護衛として、周康を登用してくれている。龍翔の
龍翔から《渡風蟲》で送られた手紙によると、平底船と積み荷の木材は、『花降り婚』の舞台を
ひょっとすると、瀁淀の妨害があるやもしれぬゆえ、注意せよと書かれていたが、幸い、今のところ順調だ。
が、油断はできない。港に着く寸前の気を抜いたところを襲われる可能性も十分にある。
周康が警戒している間にも、船はどんどん港に近づいていく。
さすが、『華揺河の瑠璃』と
周康が見た経験のない異国の大きな船や、大小さまざまの川船や渡し船などが数多く行き交っている。
船長が言っていた通り、軍船が停泊している一画は、遠目からでもすぐに知れた。商業用の船とは明らかに異なる、ものものしい武装が備えつけられた船が何十隻と並んでいる様は壮観だ。
華揺河の水運を利用しているのは、晟藍国も龍華国も同じだが、広い国土を誇る龍華国では、水軍よりも陸軍が圧倒的に多い。
龍翔が手はずを整えてくれていたおかげで、港に着いた後は順調に停泊できた。ちょうど軍船用の区画と、民間用の船着き場の間だ。
川を行き交う船も多かったが、港はそれ以上のにぎわいだった。
船旅を終え、ひと安心した様子の水夫や旅人達。積み荷の揚げ下ろしをする大勢の屈強な人夫。早くも商談を始めている商人達に、晟都の景色に見惚れている旅人達。これから船旅に出るのか、手を握って別れを惜しんでいる者達もいる。
周囲を警戒しつつも、物珍しい異国の光景に、首を巡らせて辺りを見回していると。
「
港を行き交う旅人の中に、いるはずのない青年の姿を見つけ、周康は思わずその名を呟いた。
だが、そんなはずはない、とすぐに見たものを否定する。
蚕家の
その後、刑に処されるのを恐れて、自死したと聞いている。
死んだ人間がこんなところにいるはずがない。
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