92 まだ、お前を腕の中から放したくない その2


「明順へ? ……玲泉らしいな。わかった。わたしが預かって、明順とともに目と通そう」


「わたしもご一緒してよろしいですか? もし何か重要なことが書かれておりましたら、すぐに対処しますゆえ」


「駄目だ」

 季白の申し出を、龍翔が間髪入れず却下する。


「あ、いや……。わたしも明順も夜着なのでな。読み終わるまでの間、しばし隣室で待機しておれ。お前に動いてほしい件があれば、すぐに伝える」


「……かしこまりました」


 妙に苦い季白の声がし、ぱたりと扉が閉まる音が聞こえる。隣室の従者用の部屋に移動したのだろう。


「明順。出てきてよいぞ」

 龍翔の声に、急いで衝立から出る。


「玲泉様からのお手紙が私宛というのは……。どういうことなんでしょうか?」


 卓についた龍翔のそばへ小走りに駆け寄ると、龍翔が隣の椅子を引いてくれた。素直に椅子に腰かけながら、主の秀麗な面輪を見上げる。


「大した理由はない。単に、瀁淀の目をくらますためだろう。玲泉からわたし宛に文を送れば、どうしても警戒され、中身をじっくりあらためられてしまう。が、遊び人の玲泉から、愛らしい少年従者への文とすれば、瀁淀の警戒も多少は弱まろう。本当に報告したいことは、暗号でひそませておくと申しておったしな」


「なるほど……! ですが……」


 説明しながら龍翔が文箱を明珠へ差し出すが、受け取っていいのかわからず、手が出せない。


「そういうご事情でしたら、私より先に、龍翔様がお読みになられたほうがよろしいのでは……?」


「むろん読ませてもらう」

 きっぱりと断言した龍翔が、「だが……」と秀麗な面輪をしかめる。


「とはいえ、たとえ玲泉からであっても、仮にもお前宛の文を、わたしが先に読むわけにはいかぬだろう? 主であることをかさに着た横暴な真似はしたくない」


 力強い声音に龍翔の誠実さを感じ、尊敬の念がわく。やっぱり龍翔は素晴らしい主だ。


「というわけで、お前さえよければ、一緒に読みたいのだが……」


「はいっ、もちろんです! 一緒に読みましょう!」

 大きく頷き、文箱を受け取る。


 龍翔が椅子を引いてくれた時、やけに距離が近いとは思ったが、なるほど、一緒に手紙を読むというのなら納得だ。


「では……」


 緊張にごくりとつばを飲み込み、文箱を縛る絹紐に手を伸ばす。文箱自体も、紅い漆が塗られているばかりか、金粉で美しい紋様が描かれていて、明珠がふれたことなどない高級品だ。


 本当に、明珠などがふれてよいものなのか心配だが、龍翔が止めないということは、開けてよいのだろう。


 そうっとふたを開けた途端、まず目に入ったのは。


「これは……。手巾、ですか……?」


 淡い青緑に染められた絹の布地を取り上げ、丁寧に広げる。


「わあ……っ、綺麗……」


 布地の隅に色あざやかに刺繍ししゅうされていたのは、何輪もの蓮の花だった。

 精緻せいちな刺繡に思わずうっとりと見惚れていると、すぐそばでぎりりと聞きなれない音がした。


 その音に、はっと我に返る。


「す、すみませんっ! お手紙ですよね!」


 絹の手巾を丁寧に畳み直して文箱に入れ、代わりに巻かれた紙を取り出す。こちらも、手ざわりからして最高級の紙だろう。


 そろそろと巻かれた紙を開くと、龍翔がぐいと身を寄せてきた。明珠の右肩に龍翔の胸板が当たり、ふわりと香の薫りがたゆたう。


「す、すみません……」

 身を引こうとしたが、逆に左肩を掴まれ、押し留められる。


「よい。このままのほうが読みやすい」


「は、はい……」

 龍翔の言うことはわかるのだが、どうにも心臓が騒ぎ出す。


 ぱくぱくと速くなる鼓動の響きを押しやるように、明珠は手紙に視線を落とした。


 初めて見る玲泉の流麗な筆跡が、高級な紙を彩るように書かれている。書いてまだ間がないのか、かすかに墨の爽やかな香りがした。


 が、玲泉の筆跡の美しさに感動できたのは、ほんの一瞬。


「あ、あのっ。龍翔様、これって……。明らかに、宛名を間違えてらっしゃいますよね!?」


 今すぐ頬から火が出るんじゃないかと思いながら、明珠は真横の龍翔を見上げた。


 手紙は、「愛らしい明順。芙蓉の花のように愛らしいきみの笑顔を見ることができないだけで、寂しくて仕方がないよ。蓮の手巾はわたしからのささやかな贈り物だ。きみと同じ品を懐に入れているかと思えば、寂しさも少しは癒える気がするからね」という文章から始まり、美辞麗句で、会いたい人に会えぬ寂しさがせつせつとつづられていた。


 だが、あの見目麗しい玲泉が、会えぬ切なさに一人寝の枕を濡らし、一目見ることが叶えば、天にも昇る気持ちになるだろうと情熱的に語りかける相手が、明珠などであるはずがない。


 おろおろと手紙と龍翔とに視線を往復させていると、じっと手紙に視線を落としていた龍翔から、ふたたび異音が響いた。


 張りつめた空気を漂わせる険しい表情に、明珠はようやく、先ほどの異音が龍翔の歯ぎしりの音だったと気づく。


「り、龍翔様……?」


 理由はさっぱりわからないが、龍翔がとんでもなく怒っているということはわかる。


双頭蓮そうとうれんだと!? ふざけるな……っ!」


 龍翔が地の底をうような声で怒りを吐き出す。


「双頭、蓮……?」


 確か、手紙の後半で、そんな文言をちらりと見た気がする。明珠は急いで該当の箇所を探す。


 あった。「愛らしいきみと、ぜひとも双頭蓮で朝を迎えたいものだね」と書かれているが……。明珠にはさっぱり意味がわからない。


 が、「あっ!」と気づいて文箱からもう一度、絹の手巾を取り出して開く。


 見た時に少し違和感を覚えたのだが、いまようやく理由がわかった。


 何輪か刺繍されている蓮の花の中で、一番大きく刺繍されている花が、ひとつのがくにふたつの花が咲いているという変わり咲きだったのだ。これが双頭蓮と呼ばれるものなのだろうか。


「あの、龍翔様。双頭蓮というのは、どういう意味なんでしょうか……?」


 秀麗な面輪を怒りに染めていてさえ、凛々しい美貌をそこなわない龍翔を見上げ、おずおずと尋ねた瞬間、龍翔が鋭く息を飲んだ。


「あ、あの……っ?」


 一瞬で表情を失くした龍翔に、何かまずいことを聞いてしまったのかと不安になる。


「も、申し訳ありませんっ! これが何かの暗号なのかと思いまして……っ!」

 身を縮めて頭を下げると、


「双頭蓮を知らぬのか……?」

 と虚を突かれたような声が降ってきた。


「は、はいっ。申し訳ありません! 生まれて初めて聞いた言葉で……。不勉強で、情けない限りです。それでその……。どういう意味なのでしょうか……?」


「お前の知る必要のないことだ」


 尋ねた瞬間、剣で断ち斬るように返された厳しい声音に、思わず肩が震える。


「も、申し訳……」

「す、すまん! 違う。お前を怖がらせるつもりはなかったのだ……」


 詫びようとすると、うろたえた声の龍翔に遮られた。慰めるように、よしよしと頭を撫でられる。


「その、双頭蓮というのは恋文で……。いや、とにかく。今のお前にはまだ早い」


「ですが、これが玲泉様からの暗号ではないのですか?」

 問うと、


「……は?」

 龍翔が呆けた声を上げた。


 しばし、互いに無言で見つめ合う。


 と、こらえきれぬように龍翔がふはっと吹き出した。


「双頭蓮について、やけに真剣に聞いてくると思ったが……。なるほど。そういう勘違かんちがいか」


「え? え?」


 くすくすと楽しげに喉を鳴らされ、羞恥に顔が熱くなる。戸惑っていると、もう一度、優しく頭を撫でられた。


「大丈夫だ。玲泉の暗号はもうわかった」


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