92 まだ、お前を腕の中から放したくない その1


「あの、龍翔様……? どうかなさったんですか?」


 湯浴みを終え、部屋に戻ってきた龍翔を見上げ、明珠は首をかしげて問うた。


 今日も龍翔は『花降り婚』の準備などで忙しかったらしく、朝、季白とともに出ていったきり、もう眠るというこの時間まで戻ってこなかった。


 疲れのあまり、ぼんやりしているのではなかろうか。


 心配になって、湯上りで髪をほどいた夜着姿の龍翔を見上げると、こちらを見下ろす黒曜石の瞳と、ぱちりと視線が合った。


 明珠を見ているはずなのに、明珠を通してどこか遠くを見ているような、不思議なまなざし。

 視線に宿る熱に、なんだか居心地の悪さを感じてしまう。


「あの……?」


「ああ、すまぬ。……少し、考え事をしておった」


 明珠の声に、龍翔がはっと我に返ったように苦笑を浮かべる。

 だが、まだまなざしは遠いままだ。


「考え事……、ですか?」


「ああ。叶えばどれほど……。いや、とりとめのない夢想は口に出すべきではないな」


「はあ……」

 ひとり言めいた呟きにあいまいに頷く。


 龍翔のことだ。きっと、明珠などでは思いもよらぬ深慮遠謀を頭の中で組み立てているに違いない。と、感心した瞬間。


「夕べのお前の艶姿あですがたを思い出していた。お前が美しく着飾った姿をもう一度見られたら、どれほど心楽しかろうと」


「ふぇっ!?」


 予想だにしないことを告げられ、一瞬でぼんっと顔が沸騰する。


「き、急に何をおっしゃるんですか!?」


「うん? 達成した時の楽しみがあったほうが、目標に向かって頑張れるものだろう?」


「そ、それはわかりますけれど……」


「わたしにとっては、お前の艶姿はこの上ない褒美だからな」


「ふぇっ!? な、何をおしゃって……っ!?」

 甘やかな笑顔で告げられた理解不能な言葉に混乱する。


 艶姿というならば、『花降り婚』の際の初華をいうのではなかろうか。きっと、とんでもない聞き間違いをしてしまったに違いない。


「《龍玉》を」

 混乱する明珠に、龍翔がいつものように穏やかに告げる。


「は、はい……っ」


 聞き間違いはとりあえず横に置いておくとして、明珠は素直に頷くと、夜着の上からぎゅっと守り袋を握りしめて目を閉じた。


 湯上りであたたかな龍翔の手が、そっと明珠の頬を包んだかと思うと、唇が下りてくる。

 気遣いに満ちた、優しいくちづけ。


「明珠」


 柔らかく名を呼ばれて、ぱちりと目を開けると、目の前に、とろけるような笑みを浮かべた秀麗な面輪があった。


「は、はい。あの……?」


 何か粗相でもしてしまったのだろうか。おずおずと見上げると、甘い笑みが深くなる。


「名を、呼びたかっただけなのだ」

「はあ……?」


「明珠」


 もう一度、口の中で飴玉あめだまを転がすように名を呼ばれたかと思うと、秀麗な面輪が下りてくる。明珠はあわててぎゅっと目をつむった。


 あたたかな唇が強く押しつけられる。


 反射的に身を引こうとすると、それより早く、腰に回された腕に、強く抱き寄せられた。龍翔の香の薫りが強くたゆたう。


 「んぅっ」ととっさに洩れた声まで奪うように、くちづけが深くなる


 驚きに身を強張らせると、なだめるように優しく背中を撫でられた。同時に、唇がわずかに離れ、ほっとする。


「すまん。無理強いはせぬゆえ……」


 すがるような囁き声で告げられたかと思うと、ふたたび唇をふさがれる。


 頬を包んでいた大きくあたたかな手が肌をすべり、耳朶じだを撫でる。

 長い指先が髪をくだけで、背筋にさざなみが走り、明珠は絹だということも忘れて、無意識に守り袋を掴んでいないほうの手で、龍翔の衣に取りすがった。


 湯上りのあたたかな龍翔に強く抱きしめられているせいだろうか。龍翔から伝わる熱に、身体と思考が融けてしまいそうだ。


 龍翔に支えられていなければ、とっくにくずれ落ちていただろう。


 唇を離した龍翔の熱い呼気が肌を撫でるだけで、ふるりと身体が震えてしまう。


「自制せねばとわかっておるのに……。お前は甘くて愛らしくて……。つい、我を忘れて溺れてしまいそうになる」


 骨ばった指先で優しく髪を梳きながら、龍翔が謎の言葉を呟く。


「明珠」

 甘く名前を呼ばれるだけで、心臓がぱくりと跳ねる。


 龍翔の長い指に優しく髪を梳かれるだけで、ふわふわと心が浮き立つようだ。頬の熱が頭にまで達したのではないかと思う。


「も、もう《気》はよろしいですよね……?」


 身動みじろぎして龍翔の腕から逃げようとすると、阻むように背中に回された腕に力がこもった。


「《気》は足りたが……。まだ、お前を腕の中から放したくない」


「え……?」


 どういう意味だろうかと龍翔を見上げると、こちらを見下ろす黒曜石の瞳と、

ぱちりと視線が合った。


 なぜだろう。いつもと変わらぬ優しいまなざしのはずなのに、その奥に炎が揺らめいているように感じる。


 龍翔に見つめられるだけで、不可視の炎にあぶられて、身体も心も融けてしまいそうだ。


 心の奥にくさびを打ち込もうとするかのように、熱を宿したまなざしが明珠を見据える。


「明珠。わたしは――」

「龍翔様、申し訳ございません。まだ起きてらっしゃいますでしょうか?」


 不意に響いた扉を叩く音と、季白の声に、龍翔が我に返ったように息を飲む。


「ああ。まだ起きておる。何かあったのか?」


 明珠を抱き寄せていた腕をほどいた龍翔が、わずかに緊張をにじませ、身体ごと扉を振り返る。


 あたたかな熱とかぐわしい薫りが遠のき、明珠は思わず大きく息を吐き出した。

 何だか熱に浮かされて幻を見ていたような心地がする。


「明順。念のため、衝立ついたての向こうへ行っておれ」


「は、はい」


 龍翔の指示に、急いで衝立の向こうに駆け込む。明珠の姿が見えなくなるのを待って、龍翔が扉を開く音が聞こえた。


「季白。何があった?」


「お休み前に申し訳ございません。瀁淀の屋敷に滞在している玲泉様より、文が届きましたので、急ぎお知らせしたほうがよいかと思い、まいりました。ただ……」


 季白が苦々しい声で告げる。


「宛先が、龍翔様ではなく、明順へとなっているのですが……」


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