91 お兄様にうかがいたいことがありますの その3
「乾晶から戻られて以来、今まで見たことのないお兄様の表情を見られる多くの機会に恵まれましたわ。それらはみな……。たったひとりのおかげでございましょう?」
名前を出さすとも、「たったひとり」が誰を指すのかなど明白だ。
正直、龍翔自身、己が恋などという甘やかな感情に囚われる日が来るなど、想像すらしたことがなかった。
生まれる前から命を狙われ、常に政敵に死を願われ続けている己が、弱点とならざるをえない存在を抱えるなど……。
明珠と出逢う前の自分なら、欠片も信じなかっただろう。
だが、杯からこぼれ落ちた水が決して元に戻らぬように、明珠への想いを自覚した今、彼女を手元から離すことなど、考えられない。
「――わたくしは、『花降り婚』を成就させ、晟藍国の正妃として、藍圭陛下と幸せになってみせますわ」
不意に、初華が真っ直ぐ前を見据えて、力強く宣言する。
「ああ。おぬしならば、その手で己の望む未来を勝ち取るであろうな」
妹の気質と能力をよく知る龍翔は、力強い頷きを返す。
初華ならば、言う通り、自分の道は自分で切り
だが、なぜ龍翔に改めて告げたのだろうかと疑問に思うより早く。
「ですから」
初華が、隣に立つ兄を振り仰ぐ。
強い意志のきらめきを宿したまなざしが、真っ直ぐに龍翔を貫いた。
「お兄様も、お兄様が望まれるものを、ご自身の手で掴み取ってくださいませ。お兄様の手は大きく、力強くていらっしゃいますもの。どうか、試しもせずに、ひとつだけなどと、ご自身の望みを切り捨てたりはしないでくださいませ」
祈りを込めて告げられた言葉に、息を飲む。
龍翔の大願が皇位であることを――斜陽にある龍華国を立て直すことを己が使命と心に刻んでいると、敵ばかりの宮中で数少ない味方の一人である初華は、重々承知しているはずだ。
その初華の言葉に。
「そうか……」
龍翔は、かすれた声を出す。
目の前に淀んでいた厚い霧が打ち払われ、新しい地平が開けた心地だ。
ずっと、望みはひとつだけしか抱いてはならぬと思い込んでいた。
己の大願を叶えるためならば、それだけを見据えて
たたでさえ、龍翔の周りは敵ばかりなのだ。あれもこれもと欲張っては、たったひとつの大願すら叶えられなくなると。
だが。
「望みをひとつに限る必要はない、か……」
「その通りですわ!」
と初華が力強く頷く。
「お兄様は、少々、己に厳しすぎるきらいがあります。もっと、ご自分のお心に素直になってくださいませ。そもそも、自分ひとり、いいえ。己と大切な者すら幸せにできぬ者に、どうして他の者を幸せにすることができましょう?」
初華の言葉に胸を
初華が言うことはもっともだ。
自分を犠牲にして他人のために尽くすなど、一時のことならともかく、いつまでもできることではない。龍翔は、そこまで聖人君子ではない。
溜まりに溜まった
「お兄様ったら。また難しいことをお考えになられてますわね」
龍翔を見上げた初華が、くすくすとからかうように笑う。
「お兄様の真面目でいらっしゃるところは尊敬しておりますけれど……。もっと素直に、ご自身のお心を見つめてくださいませ。お兄様がご自身の幸せを考えられた時、隣には誰がいらっしゃいますか?」
問われた瞬間、考えるまでもなくひとりの少女の姿が脳裏に浮かぶ。
大切な者ならば、何人もいる。
幸せになってほしいと願う、愛しい妹の初華。季白や張宇、安理や梅宇達といった心を許した従者達。
彼らがそばにいない自分など考えられない。それほどに、苦楽を共にしてきた季白達の存在は、そばにいるのが当たり前すぎて。
けれど。
どれほど言葉を尽くして請うことになろうと。
たとえ、その心が龍翔を向いておらずとも、決して手放したくない存在は。
龍翔が己自身の手で幸せにしたいと願うのは――たったひとりだけだ。
「だが……。その願いは、わたしひとりが勝手に願っていることだ。相手がどう考えているのか、確かめられてもおらぬ……。だというのに、わたしのそばにいてほしいと願うのは、単にわたしのわがままなのではないか?」
無意識に、声が不安に揺れる。
少なくとも、嫌われてはいないというのは断言できる。
曇りのない信頼に満ちたまなざしを見れば、一目瞭然だ。好き嫌いを隠して接するような腹芸は、あの少女には不可能だ。
だが、異性としてどう思われているのかと問われれば……。
そこについては、まったく自信がないとしか、言いようがない。
「ですが、手放す気はないのでしょう?」
「無論だ」
考えるより早く、即答する。
たとえ、禁呪のことがなかったとしても、明珠を手放すなど、何が起ころうとありえない。
それほどに大切で――想うだけで、胸の中に明かりが灯るように愛しくて。
「彼女はまだ……。自分が美しい花であることすら知らぬ、固い
初華が静かな声音で告げる。
おそらく、初華の言う通りなのだろう。
弟を何よりも大切にしている明珠は、順雪を一人前に育てることに必死で、己のことなど、いつも後回しにしていたに違いない。ふだんの言動からも、それは十分にうかがえる。
そこがいじらしくて、思う存分、甘やかしてやりたくなるのだが……。いつも遠慮されてばかりで、なかなか叶わない。
「そばで見ることは叶わぬでしょうけれど、愛らしい花が咲き誇る日を、わたくしも楽しみにしておりますの。そしていつか――」
初華のまなざしが、夢見るように遠くなる。
「いつか、わたくしが藍圭陛下とともに龍華国を訪れた時……。龍正殿で、お兄様の隣に立つ、愛らしい花と会いたいものですわ」
「っ!?」
初華が思い描く大胆極まりない未来絵図に息を飲む。
龍正殿は、他国の賓客を迎えるなどの重要な公式行事が執り行われる場所だ。今回の『花降り婚』の
一言も口には出していないが、初華が思い描く未来で、龍正殿の中央で客人を出迎えているのは現皇帝ではなかろう。
初華が玉座につくことを願っているのは――。
「……お前は、昔からわたしに、無茶ばかり言うな」
苦笑とともに呟いた兄に、初華は「あら?」と可愛らしく小首をかしげる。
「わたくしはいつも、お兄様が叶えられることしか、願っておりませんわ」
信頼に満ちた声に、とっさに二の句が継げなくなる。
「……お前には、わたし以上にわたしの未来が見えておるのだな」
嫌味ではなく、純粋に感嘆する。
誰よりも己が置かれている立場を理解するがゆえに、龍翔には、明珠との未来を思い描くことができなかった。
龍翔が明珠を望むということは、それはそのまま、明珠を陰謀渦巻く王城の権力争いに引きずり込むことに他ならぬゆえに。だが。
「お前にそこまで信頼されているのならば、なんとしてもやり遂げてみせねばならんな」
皇位も、明珠も。
どちらも諦めることなどできぬのだ。
ならば、どちらも手に入れるべく、励むしかない。
初華に叱咤激励されるまで、そんな簡単なことにすら、気づかなかった。
恋は盲目というが、我ながらなんと視界が狭くなっていたことか。気づいてみれば、こんな単純なことだったというのに。
目指す
たとえ、どれほどの困難が待ち受けていようとも、歩みを止める気はない。
まずは、そのために。
「『花降り婚』を成就させ、藍圭陛下の治世を安定させねばな」
「さようでございますわね。わたくしが晟藍国の正妃となりましたら、今まで以上にお兄様のお力になれましょう」
初華が微笑んで告げる。
龍翔と初華がひそやかに話している間も、黙々と『花降り婚』の準備に取り組む従者達を見やり、兄と妹は力強く頷きあった。
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