91 お兄様にうかがいたいことがありますの その2


「何だ?」


 初華の思惑に乗ってやる気で問い返した龍翔に、初華はあでやかに微笑んだ。


「夕べはお喜びいただけまして?」


 不意打ちで放たれた問いに、手にしていた書類を危うく取り落としそうになる。


 がさりと鳴った紙の音に、兄の動揺を的確に読み取った初華が、ころころと楽しげに笑う。


「昨日はわたくしも明順でたっぷり遊ばせていただきましたもの。あまりに明順が可愛いものですから、これはわたくし一人で楽しんではお兄様に恨まれてしまうと思いまして、ふたりきりでの食事を用意させたのですけれど……。お気に召されませんでしたか?」


 明順「と」ではなく、明順「で」たっぷり遊んだというのがいかにも初華らしいが、問題はそこではない。


 龍翔はできるだけしかつめらしい顔を作ると、妹に苦言を呈した。


「おぬしにも、ときおり気晴らしが必要なのはわかる。するなとも言わん。だが……。その気晴らしに、わたしの大切な従者を巻き込むのはやめよ」


 もし万が一、明珠の正体が余人に知られれば、大変なことになるのだぞ、という注意を言外に込めて、妹姫に厳しいまなざしを向ける。


 が、初華は龍翔の視線などどこ吹く風で、くすくすと喉を鳴らした。


「嫌ですわ、お兄様ったら。それではわたくしの質問に対する答えになっておりませんわよ? お気に召されたのなら、ちゃあんとそう言ってくださらなくては」


 からかい混じりの初華の言葉に、苦虫を嚙み潰す。初華は龍翔の口から答えを聞くまで、諦める気はないらしい。


 わくわくと瞳を輝かせ、顔をのぞきこんでくる好奇心旺盛な妹に、深く嘆息する。


 ふい、とそっぽを向き。


「……愛らしい者が、よりいっそう愛らしくなったことを、喜ばぬ者などおるまい」

 低い声でぼそりと呟くと、


「きゃ――っ! もうっ、お兄様ったら!」


 と華やいだ声を上げた初華から、なぜかたもとで勢いよくぶたれた。


「おい!?」

 思わず振り返るが、両の袖口を口元に当ててくふくふと笑う初華は動じない。


「わたくし、嬉しゅうございますわ! まさか、お兄様にそのように甘やかな笑みを浮かべさせる者が現れるなんて……っ! 昨日、可愛らしく着飾らせた甲斐がございました!」


「初華。ひとつ確認しておくが……」


 夕べ、晟藍国風の衣装を着た明珠を見た時、龍翔の心によぎったのは、またもや季白が策をろうしたのではないかという懸念だった。


 龍翔の禁呪を解くことを至上命題に掲げている季白は、乾晶から王都への帰途、蚕家に立ち寄った際に、遼淵、安理と手を組んで、着飾らせた明珠に媚薬を仕込んだ前科がある。


 もう二度とあのようなことをするな。もし今度した時には、放逐してやると厳しく戒めたが……。


 龍翔への忠誠が篤すぎるあまり、時に龍翔の意思を無視してよかれと思う策を巡らせる季白のことだ。


 玲泉という油断ならぬ脅威も出てきた今、初華を味方につけて、明珠に手を出させようと目論んでいると……。可能性が全くないと言い切れないところが、季白の季白たる所以ゆえんだ。


「その、季白がお前に……」


「季白? 季白がどうかしましたの? あっ、もちろん夕べのことは頭の固い季白には内緒にしていますから、お兄様も黙っておいてくださいましね。知られたら、叱られるに決まっていますもの!」


 可愛らしく片目をつむってみせる初華は、嘘をついているようには見えない。


 初華と季白が手を組んだりしていなくてよかったと、龍翔は心中で安堵の息をついた。


 初華に季白、それに安理の三人が手を組んだら、いったいどんなことになるのやら。考えるのも恐ろしい。龍翔の全力をもってしても、止められる気がしない。


 決してそんな事態にならぬよう、重々気をつけておかねば。でなければ、いつか取り返しのつかない事態を引き起こしてしまいそうだ。


 夕べ、愛らしく着飾った明珠を目の前にしているだけでも、理性が融けて誘惑に押し流されそうになっていたのだから。


 少年の姿をしていても十二分に愛らしいというのに、晟藍国風の薄紅色の絹の衣を纏った明珠は、まさに花と呼ぶにふさわしくて……。


 思わず、誘惑に負けて手折ってしまいたくなるほど、可憐だった。


 明珠への想いを自覚した龍翔にとっては、羞恥に愛らしい面輪を真っ赤に染めて、それでも龍翔を第一に思いやる少女はあまりに甘くて――。


 誰の目にもふれさせず、このままずっと己の腕の中に閉じ込めて、心融かす蜜を味わいたくなるほどに愛しくて。


 自制が利くうちに放さねばと忠告する理性と、このまま腕の中の蜜を飲み干したいと叫ぶ激情の間で、龍翔がどれほど揺れ惑っていたのか……。きっと、あの天真爛漫な少女は欠片も知るまい。


 だが、それでよい。


 禁呪を完全に解く手だても見つけられず、常に政敵に狙われ続ける現状では、明珠に想いを告げることは、そのまま彼女を危険の渦中に引きずり込むにほかならぬ。


 告げようと告げまいと、明珠を手放すことなど考えられぬのだから――。


 ならば、たとえ卑怯とそしられようと、もう少し現状のまま、明珠を危険から遠ざけておきたい。


 最近は、玲泉という別の「危険」まで出てきて、頭が痛い限りだが。


 しかし、それでも龍翔の手によって、初々しい明珠の心を無理やり変えたいとは思わない。


 無理やり捻じ曲げた心は、いつかきっと、どこかでひずみが出る。

 大切な明珠の心に、不要な瑕疵かしを残すなど、もってのほかだ。


「……お兄様は、本当に変わられましたのね」


 静かな初華の声に、考えに沈んでいた龍翔は我に返る。

 視線を向ければ、初華が親愛に満ちた柔らかなまなざしで龍翔を見つめていた。


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