92 まだ、お前を腕の中から放したくない その3
「ええっ!? そうなんですか!?」
「ああ。玲泉より、一定の文字数ごとに字を拾ってくれと言われておってな」
龍翔の長い指先が、とんとんとん、と文字を示していく。
「つなげて読んで意味を解釈すれば、「芙蓮姫は味方に引き込める可能性あり。ただし、警戒を解くために、わたしが直々に交渉する必要がある」と……」
「なるほど……っ! すごいですね! 文章の中に暗号をひそませるなんて……っ! 手紙を読んでも、まったく違和感がありませんでした!」
きっと、玲泉の文章力ゆえだろう。玲泉の頭のよさに、あらためて尊敬の念が湧く。
「しかし……。予想はしていたが、やはりこちらへ引き込めそうなのは芙蓮姫か……」
「芙蓮姫様もお味方になってくださると知れば、きっと藍圭陛下も喜ばれますね!」
明珠は弾んだ声を上げる。が、返ってきたのは、案に相違して苦い龍翔の声だった。
「いや。お前には気の毒だが……。おそらく、事はそう単純ではないだろう」
龍翔が渋面で嘆息する。
「くわしくは、玲泉に話を聞かねばならんだろうが……。瀁淀の息子、瀁汀と婚約していた芙蓮姫は、明らかに瀁淀側だ。だが、瀁淀は藍圭陛下を
「そう、なんですね……」
力なく呟き、しゅんと肩を落とす。
もし明珠が芙蓮姫の立場ならば、可愛い弟のために、どんなことでもしたいと願うのに。
権力が複雑に絡み合う政治の場では、姉弟の情愛を大切にすることすら叶わないなんて。
うなだれた明珠の頭を、龍翔が慰めるように優しく撫でてくる。
「皆が皆、お前のように、清く優しい心の持ち主ならばよいのだろうがな。現実には、なかなかそうもいかぬ。だからこそ、お前の心根の純粋さは、得難い美点なのだが……」
明珠、と耳に心地よく響く声で優しく名を呼ばれ、顔を上げる。
「すまぬが、玲泉の手紙のことは、藍圭陛下にはいましばらく伝えずにいてくれ。お伝えする際は、わたしの口から、できる限り陛下のお心を傷つけぬよう、配慮するゆえ……」
「は、はい。わかりました。私からは何も申し上げません!」
龍翔の言葉に大きく頷く。
そもそも、晟藍国へやってきてからというもの、藍圭は日々の公務で忙しく、姿を見ることさえ叶わぬ日々が続いている。
「いい子だ。では、お前は今宵はもう休むといい。わたしは隣室で玲泉への返事をしたため、今後どう動くか、季白と打ち合わせをしてくる」
「その……。宛名は私でしたけれど、お返事は龍翔様にお任せしてしまってよいのでしょうか……?」
尋ねた瞬間、龍翔の眉がきゅっと寄ったのを見て、あわてて言を継ぐ。
「いえっ、その、玲泉様のお手紙のような暗号をしたためろと言われても、私にはとてもとても考えられそうにないんですけれど!」
ぶんぶんと手を振りながら告げた明珠の言葉に、龍翔が大きく頷く。
「うむ。お前が書いた手紙という褒美など、玲泉にやる必要はない。玲泉への返事は、主であるわたしが書こう」
決然と告げた龍翔が、ふと何かに気づいたように「ふむ……」と考え深げな声を洩らす。
「そういえば、お前から手紙をもらったことはなかったな」
「えっ? だって……。龍翔様にお仕えするようになってから、おそばを離れたことなどありませんから……。手紙を送る機会自体、ないじゃないですか?」
そもそも、明珠が龍翔に仕えることになったのは、禁呪を解くためなのだから。
少なくとも、朝夕に《気》のやりとりをせねばならぬ関係上、明珠が龍翔のそばを何日も離れる事態など、ありえない。
「お前からの手紙が欲しい」
不意に、龍翔が予想だにしないことを言う。
「えぇぇっ!? だって、先ほども申しあげたように、龍翔様のおそばを離れること自体、ありませんでしょう!?」
「むろんだ。お前をそばから離すわけがないだろう?」
言葉を証明するかのように、龍翔が明珠の肩を抱いて引き寄せる。
ただでさえ近かったのに、薄手の夜着ごしに体温がわかるほどそばに抱き寄せられ、心臓がぱくんと跳ねる。
「あ、あの……っ」
身をよじって逃れようとする明珠に、「だが」と龍翔が生真面目な声で続ける。
「最近は朝、部屋を出てから、夕方戻って来るまで、お前の顔を見られぬではないか。これは、十分に離れていることになるだろうだろう?」
「そんなわけありませんっ! 何をおっしゃるんですか! 手紙のやりとりをするほど離れるっていうのは、もっとこう……っ」
「だが、欲しい」
龍翔が駄々をこねる子どものような口調で告げる。
「ですが……っ」
説得しようとしたところで、隣室と通じる内扉がとんとんと叩かれた。
「失礼します。龍翔様、まだお時間がかかりそうでしょうか? そうでしたら出直してまいりますが……」
「ほら! 季白さんも待ってらっしゃるじゃないですか!」
「季白など、待たせておけばよい。それよりも、お前の返事が聞きたい」
「待たせておいていいはずがありませんっ! 季白さんに叱られますよ!?」
龍翔の腕から逃げようと、ぐいぐいと押し返すが、力強い腕はにかわでくっつけたように緩まない。
「わかりました! わかりましたから! その……。すぐには書けませんが、近々、龍翔様にお手紙を書きます! ですからお放しくださいっ!」
「うむ」
満足そうに頷いた龍翔が、ようやく腕をほどいてくれる。
「あのっ、先に申し上げておきますが、まったく期待しないでくださいねっ!? 字だって汚いですし、玲泉様のような美辞麗句なんて、とてもじゃありませんが、書けませんから!」
「美辞麗句など不要だ。お前自身の飾らぬ言葉で書いてくれればよい。短くても問題ないぞ」
それならどうして手紙を書く必要があるのだろう、と疑問がわくが、上機嫌な龍翔を前に、口には出せない。
理由はわからないが、龍翔はすこぶる機嫌がよさそうだ。甘やかな笑みに、ぱくぱくと鼓動の高鳴りがおさまらない。
「も、もうよろしいでしょう? 季白さんも待ってらっしゃいますし……! どうぞ玲泉様へのお返事をお書きください」
丁寧に畳んだ手巾ごと、文箱をぐいぐいと龍翔に押しやる。
「この手巾はお前のものだが……」
「ええっ!? 絹の手巾なんて高級品、私には分不相応です!」
「……うむ。そうだな。玲泉からの……。よりによって、このような図柄など、お前が持つものではない。代わりにわたしがお前に手巾を贈ろう」
「ええぇっ!? 結構です! それよりあの、季白さんが……っ」
見えないが、内扉の向こうで不穏な気配が渦巻いている気がする。
龍翔の意識を季白へ向けるべく、明珠は必死で龍翔を説得した。
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