90 せっかくの機会ならば、今しかできぬことがよい その4


「あ、あのっ、びっくりしたのは確かですけれど、嫌だと思ったりは全然……っ! 痛っ」


 ぶんぶんとかぶりを振った調子に、落ちかかって髪に引っかかっていた髪飾りがべちんっ、としたたかに頬を打ち、思わず声を上げる。


 途端、龍翔が弾かれたように顔を上げた。


「どうした!?」


「あ、いえ。ちょっと髪飾りが頬に……ひゃあっ!?」


 突然、両手でぐいを顔を掴まれたかと思うと、髪飾りが当たった頬にくちづけられ、悲鳴が飛び出す。


 「《癒蟲》」と呟きが聞こえたので、治してくれたのだとわかったが、心臓に悪すぎる。


「すまぬ……。せっかく綺麗に結い上げていたのに、わたしのせいで乱れてしまったな。なんと詫びればよいか……」


「ええっ!? お気になさらないでください! どうせ、湯浴みをする時にはほどきますし……。少し早くなっただけですから!」


「しかし……。髪を乱しただけでなく、お前に痛い思いを……」

 納得しがたいと言いたげに秀麗な面輪を曇らせる龍翔に、明珠はふと思いつく。


「治していただいたので大丈夫です。けど……。龍翔様が気になさるとおっしゃるのでしたら、ひとつお願いを聞いていただいてもよろしいですか?」


「っ! もちろんだとも! どんな望みでも叶えよう!」


 気合をこめて大きく頷いた龍翔にくすりと笑みをこぼし、背を向ける。


「では……。お手数をおかけして申し訳ありませんが、髪飾りをとっていただいてもよろしいでしょうか? その……。高価なものなので、自分で取って、髪にひっかけて壊したらどうしようと緊張しちゃうので……」


「髪飾り?」

 龍翔が呆けた声を上げる。


「何を言う? その程度では詫びにならぬではないか」


「え? 私にとっては、十分助かるんですけれど……」


 先ほど告げた言葉は本心だ。それに、こうして背を向けていれば、紅くなった顔を見られずに済んで一石二鳥だ。


「やっぱり、こんなことを龍翔様にお願いするなんて、失礼でしょうか……? そ、そうですよねっ。季白さんに見つかったら、目を三角にして叱られるに決まって――」


「待て。せぬとは言っておらん」

 自分で取ろうと頭の後ろに回した手を、龍翔に掴まれる。


「どんなことであれ、お前に頼まれたことを嫌と言うものか。取るゆえ、ちゃんと前を向いていろ」


「ありがとうございます……」

 自由になった手を膝の上にそろえ、ちゃんと座り直す。


「せっかく綺麗に結い上げていたのに……。申し訳ないことをしたな」


「いえっ、お気になさらないでください。さっき申し上げたように、もうほどく気でしたから……」


「……惜しいな」


「え?」

 低い声の呟きに、きょとんと聞き返す。


「せっかく美しく着飾ったお前を見られる得難い機会だというのに……。これほど短いのが惜しくてならん」


 甘く響く声に、一瞬で頬が熱くなる。


「ふぇっ!? 何をおっしゃるんですか!? そ、そんなこと……っ!」


 おかしい。どきどきしっぱなしの心臓を静めるために背を向けているというのに、全然、動悸が治まらない。


 髪飾りをとり、髪をほどいてゆく龍翔の手つきは、驚くほど優しい。長い指先が髪の間を通るたび、心地よいようなくすぐったいような、不思議な感覚に襲われる。


「……もし、叶うなら」


 丁寧に髪飾りを取りながら、龍翔がふとこぼす。


「いつか機会があったら……。また、今日のように美しく着飾ったお前を見せてくれるか?」


「え? ええぇっ!?」


「「明順」としてわたしに仕えてくれている間は、難しいとわかっておる。だからこそ……。もしまた機会があった時には、逃したくないのだ。……だめか?」


 龍翔の表情こそ見えないが、甘えるように問われて、明珠に否と言えるわけがない。


 背を向けているので、言いやすかったのだろうか。


 龍翔がこんな風に願い事を口にするなんて、滅多にないことだ。龍翔の願いだというのなら、明珠の力の及ぶ限り、叶えたい。


「り、龍翔様がお望みなのでしたら、私はもちろん……」


 こくり、と頷くと不意に後ろからぎゅっと抱き寄せられた。


「ひゃあっ!?」

 ほどかれた髪がさらさらと肩をすべる。


「そうか」

 弾んだ声が告げた龍翔が、ほどいた髪を片方の肩へ流す。かと思うと。


「約束だ」


 あらわになったうなじに、ちゅっ、とくちづけを落とされ、明珠はすっとんきょうな悲鳴を上げた。


「なっ、なななななにを……っ!?」


「すまん。ちょうどくちづけやすい位置にあったゆえ、つい」

 龍翔が苦笑をこぼして詫びる。


「ついじゃありませ……、ひゃあっ!?」


 抗議の途中でふたたびくちづけを落とされ、悲鳴を上げる。


「あ、あのっ、龍翔様っ!?」


 明珠の声を無視して、龍翔がちゅ、ちゅ、とうなじにくちづけを落とし続ける。


 逃げようとするが、それより早く腰に腕を回され、ぐいと抱き寄せられた。

 じたばたともがいても、力強い腕はまったく緩む気配がない。


「龍翔様、お放しくださいっ! というか、どうして、く、くくく……っ。そのっ、首になさるんですか!?」


「では、唇のほうがよいか?」


「っ!? そういうつもりで聞いたんじゃありませんっ!」

 笑んだ声でからかわれ、思わず息を飲む。


「あ、あのっ、ほんとくすぐったいですから……っ」


 うなじから身体中に熱を持ったさざなみが広がっていく心地がする。

 くちづけられるたび、うなじから背筋へと甘い稲妻が走るようで、変な声が出そうになって、ぎゅっと唇を噛みしめる。


 龍翔の吐息が背筋を撫でるだけで、その熱さに思考まで融けてしまいそうだ。


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