90 せっかくの機会ならば、今しかできぬことがよい その3


「意図したつもりはないが……。図らずもあの時と同じ体勢だな。怒りが劣情を追いやっていたとはいえ……。我ながら、よくあの時こらえられたものだ……」


「あ、あのっ、龍翔様……? おでこは大丈夫ですか……?」


 謎の呟きをもらす龍翔におずおずと問いかけると、不意にこちらを向いた龍翔と視線が合った。形良い唇が甘やかな笑みを描く。


「お前はこんなに愛らしいというのに」

「っ!?」


 至近距離で放たれた甘い囁きに、一瞬で混乱の渦に叩き落される。


「ふぇっ!? え、えぇぇとっ、ああっ、着物ですね!? そうですっ、ほんとに綺麗な着物で――」


「違う」


 うわずった声を、穏やかに、しかしきっぱりと断ち切られる。


「着物など、関係ない。何を着ていようと、お前自身が愛らしい」


「っ!?」

 明珠の理解を超える言葉に、ぼんっと思考が沸騰する。


「あ、あのあのあの……っ!?」


「むろん、美しい衣を纏ったお前は、いつも以上に愛らしいが」

 囁いた龍翔が、わずかに身を起こす。


「明珠」


 正面から見つめられ、名前を呼ばれるだけで、頭がくらりとする。

 秀麗な面輪が下りてきて、明珠はあわてて守り袋を握りしめ、固く目をつむった。


 あたたかな唇が己のそれにふれる。


 心臓が、壊れてしまいそうだ。

 大きな手でそっと髪を撫でられるだけで、ふるりと身体が震え、変な声がこぼれそうになってしまう。


「酒など飲まずとも、お前は甘くて……。どんな美酒よりわたしを酔わせるな」


 ようやく面輪を離した龍翔がこぼした呟きにうっすらと目を開ける。


 途端、視界に飛び込んで来たのはなまめかしく頬を上気させた龍翔の面輪だった。

 匂い立つような艶を帯びた美貌は、その辺の美姫など裸足で逃げ出すに違いない色香で、魅入られたように視線が外せない。


 ああ、と明珠はひとり得心する。


 先ほど、龍翔に愛らしいと言われたような気がしたが、絶対に聞き間違いだ。

 女である明珠ですら見惚れずにはいられない美貌の龍翔が、明珠などを愛らしいと口にするわけがない。


 それとも、いつの間にか夢の世界に迷い込んでしまったのだろうか。


 まとまらぬ思考のまま、ぼんやりと龍翔の秀麗な面輪を見上げていると、龍翔が困り果てたように苦笑した。


「わかっている。お前を傷つけるようなことは決してせぬ。こうして、お前の瞳に映るのがわたしひとりだというだけで、満足するべきだと。だが……」


 龍翔の指先がそっと明珠の頬にふれる。


 紙に墨をふくませるように、ゆっくりと指先が頬から首筋へと下りていく。


「ん……っ」

 くすぐったさに身動みじろぐと、黒曜石の瞳が細くなった。


「もう一度、白い素肌にわたしだけの花びらを落としたくなる」


「花、びら……?」

 きょとんとおうむ返しに呟くと、龍翔の眉が困ったと言いたげにますます寄る。


「すまん。戯言ざれごとだ。忘れてくれ」

「で、ですが……っ」


 いつも泰然としている龍翔がこれほど思い悩んだ表情をしているのを見て、平静ではいられない。


 気づかぬうちに何か粗相をしてしまったのかと思うと、泣きたい気持ちになる。


 何より、今は龍翔を癒すための時間だというのに……。


 綺麗な衣を着せてもらい、おいしいものを食べて幸せになっているのは、明珠のほうだ。


「あ、あのっ! 私などで何ができるかはわかりませんけれど、龍翔様のお心をお慰めできるのでしたら――、っ!?」


 必死の申し出は、不意に断ち切られる。

 龍翔の唇にふさがれて。


 噛みつくような、突然のくちづけ。


 炎のような熱情を宿した黒曜石の瞳と視線が交わり、逃げるように目をつむる。


 先ほどよりも、激しいくちづけ。反射的に洩れた呼気も、抑えきれずにこぼれた声も、すべて奪いつくすかのような。


 何か起こったのかわからない。ただただ龍翔の熱に翻弄される。


 押し返そうとした手のひらは、龍翔の指に絡めとられ、長椅子に縫い留められる。


 明珠の手を握り潰してしまいそうな強い力。のしかかったまま、びくともしない大きな身体。


 このまま、龍のあぎとに噛み砕かれてしまうのかと怖くなったところで。


 はっ、と荒い息を吐いて龍翔が身を離す。肌を撫でた呼気の熱さに、ふるりと肩が震えた。


「お前は……っ!」


 激情を宿してひびわれた声に、反射的に身がすくむ。

 目を閉じたままびくりと震えた明珠に、龍翔が息を飲む気配がした。


 と、不意にぎゅっと抱きしめられる。耳元で、身体中の空気を絞り出すように龍翔が長く嘆息する音が聞こえた。


「まったくお前は……っ! どこまでわたしの理性を試す気だ? そのように無防備な言動をしていては……」


 ふ、と龍翔の吐息が首筋にかかる。かと思うと。


「甘さに溺れて喰らってしまってもしらぬぞ?」


 告げるなり、龍翔がかぷりとむき出しの首筋に歯を立てる。


「ひゃあっ!?」


 痛みはない。

 だが、甘噛みとわかっていても、明珠を混乱の渦に叩き込むには十分で。


「り、龍翔様っ!? あ、あの……っ、ひゃあっ!?」


 もがこうとした瞬間、暴れる獲物を押さえつけるに、顎に力がこもる。首筋に当たる硬い歯の感触に、明珠はふたたび悲鳴を上げた。


「わ、私なんて食べてもおいしくありませんよっ!? ですから……っ!」


 肌にわずかに食い込む歯に怯えながら、必死に説得を試みる。


「お夕食が足りなかったのでしたら、すぐにおかわりをご用意いたします! ですからお放し――」


「山海の珍味も美酒も、そんなものはいらぬ」

 ようやく龍翔が口を放す。こぼされた呟きは、吐息にまぎれるほど低い。


「わたしが欲しいものはそんなものではない」


 ゆっくりと身を起こした龍翔と視線が合う。


 困ったような、迷っているような、どこか痛みをはらんだまなざしを見るだけで、明珠の心まで締めつけられたように痛くなる。


 同時に、まなざしに宿る熱に肌があぶられるかのようで。


 どうすればよいかわからず、けれども何とか尊敬する主の憂いを取りのぞけないかと、明珠は龍翔に絡めとられたままの指先に、きゅっと力をこめる。


 途端、大きな手に力強く握り返された。


「明珠」

 深く響く声に甘く名を呼ばれるだけで、心臓が跳ねる。


 黒曜石の瞳に宿る熱が移ったかのように、頬の熱さが冷めない。

 見ているほうが胸が痛くなるような切なげな表情で、龍翔がゆっくりと告げる。


「わたしが欲しいと願うのはただひとつ――」


「龍翔様! 申し訳ございません! 俺としたことがうっかり寝過ごしてしまいまして……っ! ええと、夕食はもうお済みになられたのですか!?」


 隣室へ続く内扉の向こうから、張宇の声がすると同時に、扉が叩かれる。

 珍しく焦った様子の張宇の声に、龍翔が我に返ったように息を飲んだ。


「……安心せよ。お前が心配するような事態は、何も起こっておらぬ」


 身を起こした龍翔が、扉の向こうの張宇へ声をかける。


「お前には日頃から無理をさせてすまないな。少しは休めたか?」


「はい、それはもう。ですが、申し訳ございません。いつ初華姫様が帰られ、龍翔様がお戻りになられたか気づかぬほど寝入ってしまうとは……。お恥ずかしい限りでございます」


 情けなさそうな張宇の声は。扉の向こうで、しゅんと大きな身体を縮めている姿が目に浮かぶようだ。


「気にするな。もし何かあれば、お前ならすぐに飛び起きていただろうとわかっている。そのお前が時を忘れるほど深く眠れたというのなら、平穏だった証拠だ」


 長椅子に座り直した龍翔が、明珠が起きるのに手を差し伸べながら、穏やかな声で張宇を慰める。


「お前に無理をさせているのではないかと、わたしも心配だったのだ。お前がゆっくり休めたというのなら、わたしにとっても喜ばしいことこの上ない」


 龍翔の言葉に、扉の向こうの張宇が、ほっと大きく息をつく気配がする。


「ありがたきお言葉でございます。龍翔様はもう夕餉をすまされたのですね? では、明順や季白も……?」


「明順はわたしの隣におるが、季白については知らぬ。が、おそらく初華達と済ませているだろう。張宇、わたしのことはよいから、お前も先に食べてくるとよい」


「お気遣いありがとうございます。では、湯殿の準備を申しつけてからいただきましょう。準備が整いましたらお声をかけますので、しばらくお待ちください」


 張宇が隣室を出ていく扉の音がかすかに耳に届く。


 と、大きく息を吐いた龍翔が、やにわに椅子に座り直した明珠に向き直ったかと思うと、がばりと頭を下げた。


「すまん! その……っ。加減を誤った! お前を怖がらせたり、嫌な気持ちにさせはしなかったか!?」


「ええっ!? あのっ、龍翔様! お顔を上げてくださいっ!」


 度肝を抜かれた明珠は、あわてふためいて龍翔の肩に手をかけ起こそうとするが、引き締まった身体はびくとも動かない。


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