90 せっかくの機会ならば、今しかできぬことがよい その2
「ええっと、それはどんな……? というか、下ろしてくださいっ!」
明珠の懇願を無視して、龍翔がすたすたと部屋の端にある長椅子へと歩いていく。明珠を横抱きにしたまま腰を下ろし。
「こうして、すぐそばで着飾ったお前を愛でるのがよい」
秀麗な面輪を引き締めた龍翔に大真面目な声音で告げられ、明珠は耳を疑った。
「ふぇ? え、え? えぇぇぇぇっ!?」
主の腕の中だということも忘れ、大声を上げる。
「なっ、なっ、何をおっしゃっているんですかっ!? 癒しっていうのはですね、おいしいものを食べたり……」
「美味な料理なら食べたばかりだろう?」
「ゆっくりお風呂につかったり……」
「それはこの後でする」
「あ、あとは可愛いものをぎゅっとしたり……」
「お前の言葉通りなら」
悪戯っぽく微笑んだ龍翔が、やにわに腕に力をこめ、明珠をぎゅっと抱き寄せる。
「これも立派な癒しだろう?」
「と、とんでもないですっ! あの、お放し……っ」
龍翔の衣に焚き染められた薫りが迫ってきて、告げられた内容を吟味するどころではない。
足をばたつかせて逃げようとすると、不意に「そういえば……」と龍翔が低い声で呟いた。
「いつも首から下げている龍玉はどうしたのだ?」
「あっ、大丈夫です! ちゃんと帯の間に挟んでます!」
晟藍国の衣装は
中に母の形見が入っていることや、守り袋の薄紅色の絹紐は乾晶で龍翔に買ってもらったのだと説明すると、なぜか初華はすこぶる楽しげに微笑んだ。
「そう! お兄様が明珠のために薄紅色の絹紐を選んで……っ! それならば、明珠の着物は薄紅色にしましょうね!」
と声を弾ませて。
帯の間から守り袋を引っ張り出し、いつものように首にかける。ぎゅっと両手で握りしめると、少しだけ心が落ち着くような気がする。
いや、心臓は相変わらず、喉から飛び出すのではないかと思うほど、ばくばく鳴っているのだが。
「その……。《気》が少なくなってらっしゃるのですか……?」
龍翔がこのように身を寄せてくる理由など、それしか考えられない。
いつもなら、《気》を補充するのは就寝前と、朝、起床した時だが、日中に何か術を使うような事態が起こったのだろうか。
心配になって問うと、龍翔の口元がふっ、と緩んだ。
「……お前を、この腕の中におさめておきたいと願うわたしに呆れるか?」
不安がにじんだ苦い声。
考えるより早く、明珠は激しく首を横に振る。
「呆れるなんてそんな! そのようなこと、思うはずがありませんっ! 私などでは、禁呪の大変さを想像するだけしかできませんが、でも……っ! 龍翔様のお役に立てるのでしたら、私、何で――」
龍翔の禁呪を解くために己が雇われているのだと、重々承知している。
だが、単に雇われているという理由だけではなく。
龍翔の憂いを取り除きたい一心で「何でもします!」と言おうとして。
不意に、龍翔の人差し指に唇を押さえられる。
明珠を見下ろす黒曜石の瞳には、喜んでいるような困り果てているような、なんとも複雑な光が浮かんでいた。
「そこまでだ。ただでさえ理性を奮い立たせているというのに、これ以上、わたしを惑わせてくれるな」
「あ、あの……?」
告げられた言葉の意味がわからず、きょとんと見上げると、龍翔の笑みが深くなった。
「踏み込んではならぬと理性ではわかっているのに、お前の甘さにつけこんでしまいたくなる」
唇にふれていた指先がそっと肌を辿り、長い指がくいと顎を持ち上げる。
「お前が許してくれるというなら……。くちづけてもよいか?」
「く……っ!? は、はいっ、《気》ですねっ!?」
守り袋を両手で握りしめたまま、ぎゅっと目を固く閉じる。
龍翔の香の薫りがひときわ強くたゆたったかと思うと、ちゅ、と軽いくちづけが落とされた。
これだけの《気》で足りるのだろうかと思う間もなく、ふたたび唇が下りてくる。
ちゅ、ちゅ、と鳥がついばむような軽いくちづけ。
だが、ひとつひとつは軽くても、降りしきる雨のように続いては、いったいいつ息をしたらよいのかわからなくなる。
息を止め続ける苦しさに、片手でそっと龍翔を押し返そうとすると、ようやくくちづけの雨がやんだ。
ほっとして、詰めていた息を吐いた途端。
「んぅっ!?」
不意打ちで唇をふさがれる。
先ほどまでとは比べ物にならない深いくちづけ。
一瞬で混乱に陥り、反射的に龍翔の胸板を押し返すが、引き締まった身体はびくともしない。
逆に、のしかかるように長身が覆いかぶさってきて、思わず身を引いた拍子に体勢を崩した。
あっ、と思った時には仰向けに身体が傾ぐ。後頭部を襲うだろう痛みに身体を強張らせるが、長椅子に頭を打ちつけるより早く、龍翔に抱きとめられる。
起こしてもらえるかと思いきや、そのまま明珠はそっと長椅子に横たえられた。
「す、すみません……」
体勢を崩した拍子に唇が離れたことに安堵しつつ詫びる。
呆れられただろうかと、固く閉じていたまぶたをおずおずと開けた瞬間。
目の前に龍翔の秀麗な面輪が大写しになり、明珠はあわてて目を閉じた。
「明珠」
熱い呼気が肌を撫でたかと思うと、ふたたび深くくちづけられる。
洩れかけた声はくぐもり、言葉にならない。
ぎ、と龍翔が長椅子に膝をのせた音が、やけに大きく響いた。
押し寄せる香の薫りに頭がくらくらする。
どれほど長くくちづけていただろう。明珠の息が限界を迎える寸前で、龍翔の唇が名残惜しげに離れる。
は、と洩れた呼気は混ざりあって、どちらのものか判断がつかない。
「間違っても流されたりせぬよう、酒を断ったというのに……」
呼気にまぎれるほどの低い呟きに、そっとまぶたを開ける。途端、困り果てたように明珠を見つめる黒曜石の瞳と目が合った。
「だ、だ丈夫です! 私も一滴も飲んでおりません!」
どきどきと騒ぎ続ける心臓の音をごまかすように声を出す。黙っていては、今にも喉から飛び出しそうな心臓の鼓動が、龍翔にまで聞こえてしまいそうで。
「今日は酒蒸しもありませんでしたし、お酒が効いた料理もありませんでしたから! ですから、酔っ払って龍翔様にご迷惑をかけるなんてことは決して……っ!」
前に、蚕家でこんな風に晟藍国風の美しい衣装を着せてもらい、龍翔と夕食をとった時は、とんでもない失態を犯してしまった。
今日は間違っても龍翔に迷惑をかけまいと、気合をこめて宣言すると、なぜか龍翔の面輪が強張った。
片手で口元を覆ったかと思うと。
「龍翔様っ!?」
突然、引き締まった長身が前のめりに倒れてきて、度肝を抜かれる。
「あ、あの……っ!?」
とっさに支えようとするが、もちろん明珠の力で龍翔を支えられるはずもなく。
このまま
同時に、ごん、と額がしたたかに長椅子に当たる音がして、明珠は目をむいて音がした方を振り向いた。
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