90 せっかくの機会ならば、今しかできぬことがよい その1


 初華は食後の菓子まで用意してくれていた。


「わぁっ! こんな綺麗なお菓子まで、いただいちゃっていいんですか……っ!?」


 小さなせいろの中を見た途端、明珠は感動に思わず声を上げる。


 せいろの中に入っていたのは、蓮の花を模した菓子だ。ちょうど蕾から花開こうとしているさまは、本物の花のようで、こんな綺麗なものは食べてはいけないような気がしてくる。


 明珠の問いに、龍翔が柔らかな笑みをこぼした。


「何を言う。初華も、お前に喜んでもらおうと用意したに違いない。むしろ、食べねば初華が哀しむぞ?」


「そ、それはいけませんねっ。で、ではいただきます!」

 楊枝ようじを片手にひとくち大に菓子を切り、そっと口に運び。


「っ! おいしいです!」


 料理の数々ももちろんおいしかったが、甘味はまた別物だ。

 幸せで頬が落ちそうになる。


「そうか、美味いか。なら、わたしの分も食べるといい」


 龍翔が自分の分のせいろを明珠へ押しやる。明珠はとんでもない! とぶんぶんとかぶりを振った。


「だめですよ! 龍翔様はちゃんとご自身の分をお食べください!」


「だが、お前が気に入ったのなら……」


「いけませんっ! 今日のお夕食は、龍翔様にお喜びいただくために初華姫様がご用意なさったものなんですから! 先ほど、龍翔様がおっしゃったばかりではないですか。食べなくては初華姫様が哀しまれると思います!」


 力強く告げると、「そうか」と龍翔が苦笑した。


「自ら言ったことは守らねばな」


「はいっ。それに、こんなにおいしいお菓子をいただかないなんて、もったいなさすぎます!」


 龍翔も楊枝を手に取ってくれたのを見て、嬉しくなる。


「おいしいものは、誰かと一緒においしいおいしいって言いあいながら食べるのが一番幸せですよねっ」


 弾んだ声で告げ、ふたくち目を運ぶと、龍翔の柔らかな笑顔にぶつかった。


「そうだな。わたしは、お前が幸せそうに食べている姿を見るのが、一番幸せだ」


 慈しみにあふれた笑みに、ぱくりと心臓が跳ねる。思わず取り落としそうになった菓子をあわてて口の中に入れながら、明珠はそっと龍翔をうかがった。


 楊枝に刺した菓子を口に運ぶさまは優雅極まりなく、無意識のうちに視線が引き寄せられる。


 よくよく考えると、明珠などがこれほど素晴らしい美貌の主人と一緒に食事ができるなんて、光栄すぎる。道理でいつも以上にご飯が美味しかったはずだ。

 もし季白もこの場にいたら、感涙にむせんでいたに違いない。


「どうした? こちらをじっと見て。やはり欲しかったのではないか?」


 うっかり見つめ過ぎていたらしい。


「ち、違うんです!」

 残りの菓子を明珠へ寄越そうとする龍翔をあわてて押し留める。


「そ、その……っ。龍翔様が召し上がるお姿があまりに優雅なので見惚……いえっ、感心してしまって」


 見惚れてしまったとは恥ずかしくて口に出せず、あわてて言い直す。


「龍翔様と一緒にいただけているのだと思うと、ただでさえおいしいお菓子が、さらにいっそうおいしくなる気がします!」


「それを言うのなら、わたしのほうだがな。にこにこと笑顔で食べるお前の姿を見るだけで、心楽しい」


「ふぇっ!?」

 甘やかな笑みに、菓子を喉に詰まらせそうになる。


「うん? どうした?」

「な、なんでもないです……っ」


 こくこくとお茶を飲み、ほっと息をつく。


 龍翔は己の美貌の威力に無自覚すぎる。龍翔といい、初華といい、麗しすぎて心臓に悪い兄妹だ。


「そういえば……。初華があせもは治したと言っていたが、代わりに無理難題を言われはしなかったか?」


「え?」

 明珠の心を読んだかのように初華のことを話題に出され、戸惑う。


「初華は……。頭の回転も速く、晟藍国の正妃としてふさわしくはあるが……。こと、可愛いものを前にすると、我を忘れて熱狂する悪癖があるからな……」


 苦笑いをこぼしつつも、黒曜石の瞳に宿る光は、妹への愛情にあふれている。


 こんなに穏やかで優しい龍翔の表情を見るのは久しぶりな気がする。


 ほっこりと心があたたかくなるのを感じながら、明珠はふるふるとかぶりを振った。


「大丈夫です! 無理難題なんて、まったく全然……。それどころか、こんな綺麗な衣を着せていただけるなんて……。何度お礼を言っても足りません!」


 初華の厚意がなければ、明珠などがこんな美しい絹の衣装を着る機会は一生ないと断言できる。


 絹の衣は緊張するが、それでも年頃の娘としては嬉しさでふわふわと心が弾む。


「そうか。お前が喜んでいるのなら何よりだ。……わたしも、お前の愛らしい姿を見られて嬉しい」


 菓子を食べ終えた龍翔が柔らかく微笑む。菓子よりも、もっとずっと甘い笑み。


 思いがけない不意打ちに、明珠は飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。一種で頬が熱くなったのが、さわらずともわかる。


「あ、あのっ。お夕食も終わりましたし、張宇さんにお風呂の準備をお願いしてきますね! たぶん、まだ隣室で休まれていると思うので……っ」


 茶器を置き、あわてて立ち上がる。内扉でつながっている隣室なら、張宇以外に見咎められる心配もない。


 真っ赤になっている顔を見られなくなくて、あわてて背を向けようとすると、不意に手を掴まれた。


「まだだ」

 言葉と同時にぐいと引かれ、たたらを踏む。


「ひゃっ」


 よろめいた身体を、素早く立ち上がった龍翔に抱きとめられる。ふわりとかぎ慣れた香の薫りが漂った。


「まだ張宇は呼ばずともよい。……湯浴みをしたら、その衣から着替えてしまうだろう?」


「ふぇ? はい、それはもちろん……」


 明珠は「少年従者・明順」でいなければならないのだ。いつまでも女物の衣装を着ているわけにはいかない。


「せっかく、着飾ったお前を見られる得難い機会だというのに……。すぐに着替えてしまっては、もったいないではないか」


「そ、それはそうかもしれませんが……」


 貧乏人の性で、「もったいない」と言われるとすぐに意志がぐらついてしまう。


「あ、あの、龍翔様。とりあえずお放し――」

「それに」


 明珠の言葉を遮るように、龍翔が決然とした声を出す。


 主を振り仰いだ明珠の視線が、悪戯っぽい光をたたえた黒曜石の瞳とぶつかった。


「食事の前に、約束してくれただろう? また後でわたしを癒してくれると」


「は、はい! あのでも、何をすれば……? お肩でもおもみしましょうか?」

 小首をかしげて問うと、龍翔の笑みが深くなった。かと思うと。


「ひゃあっ!?」

 突然、横抱きに抱き上げられ、すっとんきょうな悲鳴が飛び出す。


「お前に肩をもんでもらうのも魅力的だが……。せっかくの機会だ。今しかできぬことがよい」


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