89 またつまずいては困るだろう? その2


「下ろしてください! これではご飯が食べられませんし!」


「そんなことはないぞ」


 悪戯っぽい笑みをひらめかせた龍翔が、はしを手にしたかと思うと、「ほら」と明珠の口元に魚のすり身団子を運んでくる。


「ふぇっ!? あ、あの……っ!? 龍翔様がお食べに……っ!」


「お前に食べさせてやりたいのだ。ああほら、早く食べねば煮汁が落ちてしまうぞ?」


「っ!」


 絹の衣装を汚すなんて、とんでもない。

 反射的にすり身団子をひと口で食べる。


 一度蒸したものを煮ているのだろうか。どんな風に作っているのかわからないが、ふわっふわの食感だ。川魚の淡白で上品な風味に、出汁がきいた味つけがよく合っていてとてもおいしい。


 思わず無言になって、もっもっもとよく噛んで味わう。こんなにおいしいものをすぐに噛み下してはもったいない。


「ふぁ~っ、おいしいです~」


 ようやく口の中が空になり、至福の吐息をつくと、龍翔がふはっと吹き出した。


「お前はいつも、本当に幸せそうな顔で食べるな。見ているこちらまで、幸せな気持ちになってくる」


 間近でとろけるような笑みをこぼされ、かあっと頬が熱くなる。


「だ、だって……。龍翔様にお仕えさせていただくようになるまで、こんなにおいしいものをいただく機会なんて、なかったですから……」


「では、好きなだけ食べるとよい」


 にこやかに微笑みながら新しい料理に箸を伸ばそうとする龍翔の手を、はっしと押さえる。


「じ、自分で食べられますから! 下ろしてくださいっ! これでは、龍翔様が食べられないじゃないですか!」


「ならば」

 龍翔が形良い唇に甘やかな笑みを刻む。


「お前がわたしに食べさせてくれればよい」


「っ!?」

 予想だにしない言葉に息を飲む。


「いえいえいえっ! どう考えても自分で自分のご飯を食べたほうが効率がいいと思います!」


 ときどき、龍翔は思いもかけないことを言う。これも、悪戯の一種なのだろうか。

 と、途端に龍翔の眉が哀しげに下がる。


「……お前は、嫌か? せっかく愛らしいお前を愛でながら食事を楽しめると喜んだというのに……」


「あ、あい……!?」


 やっぱりこれは龍翔の悪戯だ。


 大きな犬がくぅんと尻尾を垂らしているような姿に、ぐらぐらと意志が揺らぎそうになるが、この体勢では、食べ終わるより、明珠の心臓が壊れるほうが早いのは明らかだ。


 ここで引くわけにはいかないと、意志の力を振り絞って抗弁する。


「こ、これでは、緊張でせっかくのお料理をゆっくり味わうことができませんっ! 慣れないことをして、絹の衣をうっかり汚してしまったらとどうしようと気が気ではありませんし……っ! それに……」


 じ、と龍翔の黒曜石の瞳をのぞきこむ。


「『花降り婚』の準備のために奔走されて、お疲れでいらっしゃいますでしょう? せめて……。今夜くらいは、ゆっくりとお食事をとっていただきたいです……」


 晟都についてからこっち、龍翔は怒涛の多忙ぶりだ。食事の時すらも、季白の報告を受けたり指示を出したり、藍圭や初華と今後の方針を話し合ったりと、食べているのか働いているのか、区別がつかないほどだ。


 初華が龍翔と明珠で食事を、と提案したのも、明珠とならば報告や指示をする必要がないからだろう。

 なぜ、わざわざ明珠に女物の衣装を着せたのかまではわからないが。


 真摯な想いをこめて龍翔に告げると、虚を突かれたように龍翔が目を見開いた。かと思うと。


「ひゃあぁっ!?」


 ちゅ、と不意に額にくちづけられ、悲鳴が飛び出す。


「まったくお前は……。そのように心配されたら、否とは言えぬではないか」


 仕方なさそうに苦笑した龍翔が、そっと腕をほどいてくれる。


「その代わり……。後でまた、わたしを癒してくれるか?」

「? はい、私にできることでしたら! お肩をおもみしましょうか?」


 よくわからぬままこくりと頷くと、龍翔が嬉しげに破顔した。きっと、毎日大忙しで肩が凝っているに違いない。


 そそくさと龍翔の膝から降り、卓の向こうへ回り込もうとすると、手を掴んで引き止められた。


「あの……?」

「向こう側まで行っては、料理が遠くて食べにくいだろう?」

「確かにそうですね」


 いつもなら大勢で食べるので、大きな卓いっぱいに大皿に載った料理が並べられるが、今日の夕食は龍翔と明珠の二人分だ。料理が並べられているのも一角だけなので、龍翔の言う通り、向こうへ回ったら手が届きにくいだろう。


「そちらに座るとよい」

 指示された通り、龍翔と直角になる卓の端の席に着く。


「あ、すみません。お茶がまだでしたね。すぐにお入れします」


 あらかじめれて冷まされていたお茶をつごうとして、ふだんの食事の時には見たことのない瓶子へいしがあるのに気づく。


 何だろうかとのぞきこむと、ふわりとお酒の香りがした。


「龍翔様。お酒まで用意してくださってますよ。お飲みになられますか?」


 ふだんの食事でお酒が出てくることはない。季白や張宇、浬角は警護があるので決して飲まないと明言しているし、そんな従者達に気を遣ってか、龍翔と初華も飲むことはない。まだ子どもの藍圭は言わずもがなだ。

 このお酒も初華の心づくしのひとつに違いない。


 明るい声で龍翔に報告すると、


「酒は飲まん!」

 予想だにしない厳しい声が返ってきた。


「す、すみませんっ!」


 叩きつける刃のような鋭さに、びくりと身体を震わせ、謝罪する。

 途端、龍翔の秀麗な面輪が困り果てたように歪んだ。


「すまぬ。違う、お前を叱ったわけではないのだ……」


 痛みをこらえるかのように、形良い眉がきつく寄る。


「その、初華の心遣いはありがたいが、まだ季白達は働いているだろうに、わたしだけ酒を飲むわけにはいかぬと……。厳しい物言いをしてすまぬ。いくらでもわびるゆえ、そんな顔をしないでくれ」


 いったいどんな顔をしているというのだろうか。


 そっと伸ばされた龍翔の大きな手のひらが、明珠の頬を包む、


 そんなはずはないのに、龍翔の面輪が泣き出すように見えて、明珠はぶんぶんとかぶりを振った。


「ち、違うんです! ちょっとびっくりしただけで、その……っ! 変な顔ですみませんっ!」


 力いっぱい詫びると、龍翔が小さく吹き出した。


「変な顔という言い方はなかろう」


 くつくつと笑いながら、龍翔の指先がそっと、明珠の頬を辿る。

 慈しむような優しい指先は同時にくすぐったくて、思わずふるりと肩が揺れる。


「……お前を傷つけるつもりは、芥子粒ほどもないのだ」


 苦みを帯びた龍翔の声。

 明珠は心からの信頼をまなざしに乗せ、こくりと頷く。


「もちろんです! 龍翔様がそんなことをなさるなんて、まったく全然思っておりません!」


 力強く断言すると、龍翔の唇が柔らかくほころんだ。


「……そうだな。お前の信頼を裏切るわけにはいかぬ」


 では食べようか、と優しい声で促され、明珠は「はい!」と笑顔で箸を取った。


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