89 またつまずいては困るだろう? その1
「明順、いま戻った。初華もいるのだろう?」
龍翔が部屋に戻ってきたのは、窓の外がすっかり宵の群青色に染まった頃だった。
「あ……」
龍翔を迎えねばと立ち上がった明珠だが、今の姿ではとてもではないが、扉を開けることはできない。
万が一、藍圭や浬角も一緒だったら大変だ。
と、戸惑う明珠の心を読んだかのように、初華がてきぱきと指示を出す。
「明順。衝立の向こうに隠れてらっしゃい。あなたが出てきても大丈夫だと判断したら、呼んであげるから」
「は、はい」
初華の言葉に従い、小走りに衝立の向こうへ移動する。
明珠が衝立の陰へ完全に隠れてから、扉を開けるかすかな音が聞こえた。
「すまぬ。あれこれと立て込んでしまい、遅くなった。……
手つかずのまま、卓の上に並べられたままの料理に気づいたのだろう。龍翔の声に申し訳なさそうな響きが宿る。
が、すぐにいぶかしげな声へと変じた。
「明順は? 明順と張宇はどこにおる?」
「落ち着いてくださいませ、お兄様」
龍翔を初華の穏やかな声が押し留める。
「張宇は夜の警護に備えて、隣室で仮眠を取っております。明順は――」
不意に、初華の声が悪戯っぽい響きを帯びる。
「明順は衝立の向こうにおりますから、どうぞお兄様が呼んであげてくださいませ。わたくしと萄芭はもう、藍圭様のもとへ戻りますから、お兄様は明順と二人で、ごゆっくり食事を楽しんでくださいませね。あ、お兄様にご依頼された明順のあせもはちゃんと治しておきましたから、どうぞご心配なく」
「そうか、助かった。なんと礼を言えばよいか……」
龍翔が大きく安堵の息をついたのが、衝立のこちら側にいてもわかる。初華がころころと鈴が転がるような笑い声を上げた。
「礼には及びませんわ。明順と過ごすのは、わたくしにとっても楽しい時間でしたもの、ですが、もしお礼とおっしゃるのでしたら……」
初華が思わせぶりに言葉を切る、
「どうぞ、明順に優しくしてやってくださいませ」
「無論だ。今後はよりいっそう気をつけよう」
龍翔が力強く即答する。
今でも十二分に気を遣っていただいているのにと申し訳ないばかりだが、割り込むわけにもいかず、明珠はひとり、衝立のこちら側でおろおろとうろたえる。後で、もう十分にお気遣いいただいていますと龍翔に伝えなくては。
「では、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
初華と萄芭が出ていく衣擦れの音がする。
ぱたりと扉が閉まり。
「もう、わたし以外誰もおらぬ。明珠。出てきてよいぞ」
柔らかな声で龍翔に呼ばれたが、すぐには動けない。
「明珠?」
「は、はい……」
重ねて呼ばれ、蚊の鳴くような声で返事する。
「……どうかしたのか?」
龍翔の声がいぶかしげに低くなる。
「どうした? 何か体調でも……」
気ぜわしい龍翔の足音が近づいてくる。
「ち、違うんですっ。あのっ、ちょっと心の準備が……っ、ひゃあっ!?」
あわてて出ようとした瞬間、衣の裾を踏んづけた。
「明珠!?」
前へつんのめった身体を力強い腕に抱きとめられる。
「す、すみま――」
あわてて謝りながら主の顔を見上げた明珠は、龍翔が目を見開いて凍りついているのを見て、いま自分がどんな格好をしているのかを思いだす。
「ち、違うんですっ! これは……っ」
あわてて龍翔から身を離しながらあわあわと弁明しようとする。が。自分でも何が違うのかよくわからない。
「その格好……。犯人は初華、か……?」
龍翔がかすれた声で呆然と呟く。
視線は信じられぬものを見たかのように、明珠に据えられたままだ。秀麗な面輪はぽっかりと表情が抜け落ちたかのように強張っている。
「そ、そのっ、ご遠慮もうしあげたんですけれど、初華姫様が龍翔様に喜んでいただくためだとおっしゃって……っ。す、すみませんっ! こんな格好をしてちゃダメですよね!? すぐに着替え――、ひゃっ!?」
身を翻そうとした瞬間、ぐいと腕を掴んで引き寄せられる。
かと思うと、後ろからぎゅっと抱きしめられた。
「すまん。予想だにしていなかった事態に、一瞬、夢か
心地よく響く声に耳元で囁かれ、それだけで、かあっと頬に熱がのぼる。
今、明珠が来ているのは、夕方、初華と萄芭に二人がかりで着せてもらった晟藍国風の立派な衣装だ。……しかも、女物の。
少年従者・明順として龍翔に仕えている以上、万に一つでも女物を着ている姿を余人に見られるわけにはいきません! しかも、綺麗な薄紅色の絹の衣だなんて、分不相応で絶対に似合いません! と固辞したのだが、
「明珠ならきっと似合うと思って選びましたのに……。わたくしが選んだ衣では気に入ってもらえないのかしら? そんなに嫌ですの……?」
と、瞳を潤ませた初華に哀しげに言われては、明珠に否と言えるはずがなく。
美しい衣装を着せてもらったばかりか、髪も綺麗に結い上げられ、唇には紅まで引かれてしまった。
龍翔が戻ってきた時に出迎えられなかった理由も、明珠が少女であることをしらぬ藍圭や浬角に、女物の衣をまとった姿を見られるわけにはいかないためだ。
「あ、あのっ、龍翔様! お放しくださいませ……っ」
長身の龍翔に背中から抱きしめられ、衣に
身動ぎすると、龍翔の腕がほどかれた。かと思うと。
「ひゃあ!?」
不意に横抱きに抱き上げられ、すっとんきょうな声が飛び出す。
「き、急に何をなさるんですか!? 下ろしてくださいっ!」
「だが、またつまずいては困るだろう?」
足をばたつかせた明珠に、龍翔が悪戯っぽく笑う。
「そ、それは……っ。さっきはうっかりしていただけですから! こんな丈の長い着物はふだんも着ていませんでしたし……」
実家にいた頃や、蚕家で侍女として少年姿の「英翔」に仕えていた頃は、当然ながら女物の着物を着ていたが、丈はくるぶしよりも上のものばかりだった。いま着ているような裾が床に届くような長い豪華な着物では、家事なんてできない。
「大丈夫です! ちゃんと気をつけて歩きますから……っ!」
明珠が抗議しても、龍翔の歩みは止まらない。
そのまま卓のところへ連れて行かれたかと思うと、明珠を横抱きにしたまま、龍翔が腰を下ろす。龍翔のふとももに座る形になった明珠は、大いにあわてた。
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