90 せっかくの機会ならば、今しかできぬことがよい その5


「そんなに暴れていては、裾が乱れてしまうぞ?」


 笑んだ声で注意され、逃げだそうとばたつかせていた足をぴたりと止める。


 花びらのように幾重にも重ねられていた薄物の裾が、暴れてしまったせいで、気づけばひどく乱れていた。


「そうおっしゃるのでしたら、おやめくださいっ!」

 あわてて裾を直しながら龍翔に抗議する。


「ど、どうしてこんな……っ」


「すまぬ……。いつもは衣で隠れているお前のうなじが、晟藍国風の衣装で無防備にあらわになっていると思うと、つい抑えがきかず……」


 明珠の肌をあぶるかのように、耳のすぐそばで熱い吐息がこぼされる。肌を撫でる呼気の熱さに、思わず肩を震わせると、身体に回された龍翔の腕に、ぎゅっとさらに力がこもった。まるで、激情を押さえつけるかのように。


「自分を律さねばならぬとわかっておるのだが……。着飾って花のように愛らしいお前を見ていると、つい我を忘れて流されてしまいそうになる」


「あ、あのっ、龍翔様……?」

 振り返ろうとすると、「駄目だ」と厳しい声で制された。


「……これでも、こらえているのだぞ? だというのに、正面からお前を見れば……くちづけずにいられる自信がない」


 くぐもった呟きは、あまりに低くてよく聞こえない。

 言葉の代わりとばかりに、龍翔の唇が首筋に押しつけられる。


「あ、あの……っ!?」


 いったいどうすればいいのかわからない。言いつけを破って振り返ろうとして。


 こんこんと内扉が叩かれる。


「龍翔様、お待たせいたしました。湯殿の支度ができております。明順のための湯もお持ちしました」


 張宇の穏やかな声に、火花を孕んだ緊張が破られる。


「そうか……。わかった。しばし待て」

 龍翔が残念そうな安堵したような、複雑な感情が入り混じった吐息を洩らす。


「残念だが、愛らしい花を愛でられる時間は終わりのようだ。……手折らずに済んだことを喜ばねばな」


 吐息にまぎれるほど低い囁きをこぼした龍翔が、明珠を抱きしめていた腕をそっとほどく。


 背中を包み込んでいたあたたかな熱が離れていくことに後ろ髪を引かれるような寂しさを覚え、明珠は立ち上がろうとした龍翔の袖を反射的に掴んだ。


「あ、あの……っ」

「うん? どうした?」


 明珠の行動に目を丸くした龍翔が、だがすぐさままなざしを和らげて尋ねてくる。


「その……っ」


 どうして龍翔を引き留めようとしたのか、自分で自分の心がわからない。


 あうあうと口ごもりながら掴んだ袖を放せずにいると、ふっと口元をほころばせた龍翔が、掴まれた袖とは反対の手で、そっと明珠の手を包み込んだ。


「引き留めてくれるのは嬉しいが……。これ以上、わたしを甘やかさないでくれ。内扉のすぐ向こうに張宇がいるというのに、ふたたびお前をこの腕に閉じ込めてしまいたくなる」


 抱き寄せられぬ代わりと言いたげに、拳を包んだ龍翔の手にぎゅっと力がこもる。


「あ、甘やかす……!? あのっ、いつも甘やかしていただいているのは私のほうだと思うんですけれど……っ!? こんな綺麗な着物に、おいしいご飯に……っ! というか!」


 そもそも、どうして初華にこんな素晴らしい着物を着せてもらったのか、その理由を思い出す。


「私ばかり、よい思いをして……っ。龍翔様は、少しでもお心を安らげることができたでしょうか……っ?」


 不安を隠さぬままに、秀麗な面輪を見上げると、目を瞬いた龍翔が柔らかな微笑みを浮かべていた。


「無論だ。ここしばらくの憂さがすべて晴れるほど、心楽しいひとときであった。……お前にとっても、そうであれば嬉しいのだが」


「は、はい! もちろんです!」

 こくこくこくっ! と何度も頷く。


「私も龍翔様と一緒に過ごせて……っ」


 龍翔の悪戯に、心臓が壊れるかという思いは味わったが、それでも一緒に時を過ごせた喜びのほうが大きい。


 なんとかそれを伝えようと、必死で頭を働かせ。


「わ、私も龍翔様と一緒においしいご飯をいただけて、とても嬉しかったです!」


 少しでもこの喜びが龍翔に伝わればいいと、気合をこめて告げた途端、なぜか目を丸くした龍翔に吹き出された。


「そうか……。おいしい料理が嬉しかったか」


 肩を震わせ、くくく、と龍翔がこらえきれぬように龍翔が笑いをこぼす。


「えっ、いえっ! お料理だけではなくて……っ」


 あわあわと言いつくろおうとすると、よしよしとあやすように頭を撫でられた。


「よい。お前も心楽しい時を過ごしてくれたのなら、わたしも嬉しい」


 優しく笑う龍翔は、先ほどまで揺蕩たゆたわせていた危うい熱っぽさが消え、すっかりいつも通りの龍翔で、明珠はほっとする。


「あのー、龍翔様……?」

 扉の向こうで、張宇がいぶかしげな声を上げる。


「ああっ、すみません! お引き留めしてっ!」


 明珠があわてて掴んでいた袖を放すと、「そこで待っておれ」と一声かけた龍翔が内扉へと歩み寄った。


 てっきり、いつものように、出ていく龍翔と入れ違いに張宇がたらいを運び込んでくれるものと思っていたのだが。


 ぱたりと扉が閉まる音に振り返ると、両手にたらいを持った龍翔が立っていて胆を潰した。


「えっ!? だ、だめです! 龍翔様にそんなことをさせるわけには……っ!」


 あわてて龍翔に駆け寄り、たらいを受け取ろうとするが、龍翔は頑として応じない。


「お前の細腕で、湯の入ったたらいは重かろう。万が一、落としたら大変だぞ?」


 確かに、この豪奢極まりない部屋の床にお湯をぶちまけたら、とんでもないことだ。ふだん、湯浴みする時でも、床を濡らしたりしないよう、気を遣うというのに。


 だが、主である龍翔に下男のような仕事をさせるわけには……っ。と思い悩んでいるうちに、龍翔は危なげなくたらいを持ったまま進むと、衝立のそばの床に置いてしまう。


「あ、ありがとうございました!」

 龍翔に駆け寄り、深々と頭を下げる。


「絹のお衣装を着た龍翔様にわざわざお運びいただくなんて……。大丈夫ですか? 濡れたりしていませんか!?」


 不安になって、思わずまじまじと見てしまう。


「でも、どうして今日に限って龍翔様が……? というか、主人である龍翔様に仕事をさせるなんて、本当にすみませんっ!」


 季白に知られたら、どれほど叱られるかと思うと、胃が痛くなる。


 もう一度、深く頭を下げると、優しくぽふぽふと頭を撫でられた。


「よい、気にするな。……わたしのわがままなのだから」

「わがまま……、ですか?」


 顔を上げ、きょとんと首をかしげると、龍翔の笑みが深くなった。手を滑らせた龍翔が、ほどいたままの髪をひと房、持ち上げる。


「美しく着飾ったお前の愛らしい姿を、たとえ張宇といえど、他の男の目にふれさせたくなかったのだ」


 ちゅ、と宝物にふれるようにくちづけられ、明珠の思考が沸騰する。


「ふぇっ!? あ、あの……っ!?」


「残念極まりないが、花を愛でられるのはここまでのようだ。わたしも湯殿に行って来るゆえ、お前もゆっくり湯を使うといい」


 返事も待たず、龍翔が身を翻す。

 ぱたりと扉が閉まる音で我に返るまで、明珠はほうけたように龍翔の凛々しい後姿を眺めていた。


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