88 お兄様に頼まれて来ましたの その1


「明順、張宇。いるかしら?」


 夕刻、扉を叩く音とともに聞こえてきた初華の鈴を振るような声に、明珠と張宇は顔を見合わせた。


 今、龍翔の部屋にいるのは、明珠と張宇の二人きりだ。龍翔は朝、季白とともに部屋を出たきり、一度も戻ってきていない。


「わたしも明順もおりますが……。龍翔様は、まだお戻りになっていらっしゃいませんが?」


 書類仕事の手を止めた張宇が扉を上げる。

 そこに立っていたのは、初華と荷物を抱えた萄芭、そして浬角だった。


「ありがとう、浬角。後は張宇が護衛をしてくれますから、あなたはお兄様とお待ちになられている藍圭様のところへ戻ってちょうだい」


 初華の言葉に、「では失礼いたします」と一礼した浬角が足早に去っていく。


「明順のことでお兄様に頼まれたことがあって来ましたの」


 部屋に入ってきた初華が、卓の上に広がる書類を見て立ち止まる。


「まあっ、すごい量の書類だこと……。この量をあなた達二人で調べているの? ひとこと声をかけてくれたら、わたくしの侍女達を手伝いに遣わせるのに……」


「いえ、初華姫様の侍女達は、婚礼の準備で忙しいことでございましょう。お手をわずらわせるわけにはまいりません。ただ……」


 張宇が日中、書きつけていた紙を初華に差し出す。


「現在のところわかっている婚礼の準備のために仕入れた品々の一覧表でございます」


「わかりました。実際の品と一致するか照合すればよいのね。晟藍国の官吏達から準備を引き継ぐ際に、後で問題が起きないよう、品物の種類と数を控えておきましたの。侍女達に照合させて、相違を洗い出しますわ。報告するのは、季白のほうがよいかしら?」


 打てば響くように初華が応じる。


「ええ、お願いします。相違があるほうがよいのか、ないほうがよいのか、悩ましいところですが……」


 張宇が精悍な面輪に苦笑を浮かべる。初華があでやかに微笑んだ。


「どちらにしても、わたくし達がするべきことはひとつだけですわ。瀁淀を追い落とし、藍圭様の治世を確固たるものにすること。そのためには、婚礼の準備も、瀁淀を失脚させるための証拠集めも、同時に行わなくては」


「初華姫様のおっしゃる通りでございますね。失礼いたしました」


 張宇が恭しく一礼すると、初華が笑ってかぶりを振った。


「そのためにあなたや明順が励んでくれるのは嬉しいけれども……。まもなく夕餉ゆうげの時刻だというのに、この卓の上では、お料理の置きどころもないわね」


「す、すみませんっ! すぐに片づけます! 龍翔様ももうすぐお戻りになられるのですよね?」


 わたわたと片づけようとすると、初華に優しく制された。


「そんなに慌てなくて大丈夫よ。お兄様と藍圭様は、まだしばらくはお戻りになられないから。けれど……。戻ってこられた時のために、卓は綺麗にしておいたほうがいいかもしれないわね」


 明珠と張宇が一日中、書類仕事をしていたせいで、卓の上は何本もの巻物が開かれたままだったり、冊子が何冊も伏せられていたり、書きつけがあちらこちらにあったり……。と大変なことになっている。


 作業を始める前に、内容ごとに仕分けをしたのだが、ひとつの巻物に複数の内容が書かれていたり、同じ日付のことでも、別の冊子に書かれていたりと、何冊もの冊子から書き写したりしていたせいだ。


「明順。ひとまず、仕分けした分を混ぜないようにして隣室へ移そう。どうせ、従者用の部屋は寝るくらいしか使っていないし……。あちらの卓なら、邪魔になることもないだろう」


「張宇さんは、護衛もあって大変なのに……。手伝ってくださってありがとうございます」


 張宇の提案に、申し訳ない気持ちで頭を下げる。


 己の身を自分で守れる龍翔は別として、初華と藍圭の二人は、護衛を欠かすことができない。ただでさえ、周康が怪我をして従者が少なくなっているところに、安理までが情報収集のために王宮を離れているため、今は季白、張宇、浬角の三人が交互に藍圭と初華に警護についている状態だ。


 当然、夜も警護につかねばならないため、睡眠なども不規則になっているだろう。


「今さらですけれど……。張宇さん、仮眠を取っておかなくてよかったんですか……? 夜は張宇さんが護衛をされることが多いんでしょう?」


 季白と浬角は、龍翔と藍圭の供として、日中付き添わねばならぬ用事が多いため、二人がちゃんと睡眠をとれるよう、夜の警護はほぼ張宇が担っているらしい。


 夜に眠れないのだから、昼間にちゃんと仮眠を取っておかねば、いかに張宇とてつらいに違いない。


「すみません。私が気が利かなかったばかりに……」


 書類を片づけながら詫びると、張宇があわてたようにかぶりを振った。


「いや、謝る必要なんてない。明順がひとりで頑張っている横でぐーすかと寝るなんて、さすがにできないし、俺が手伝いたくて手伝ったんだ。頼むから、そんな顔をしないでくれ」」


「でも……」


 張宇が凛々しい眉を困ったように下げるが、明珠は素直に頷けない。


 助け舟を出したのは、遠慮したにもかかわらず、率先して片づけを手伝ってくれている初華だった。


「では、わたくしが明順と一緒にいるから、張宇は隣室で仮眠を取りなさい。あなたなら、隣室で眠っていたとしても、怪しい気配を感じれば即座に飛び起きて駆けつけてくれるでしょう? 万が一、何かあったとしても、あなたが隣室から駆けつけてくれるまでの間くらい、わたくしと明順の身は、己で守ってみせますわ」


 婉然えんぜんと微笑んだ初華に、だが張宇は渋い顔をする。


「初華姫様のお心遣いはありがたいことでございますが、やはりお二人だけにするわけには……」


「あら、でも」

 初華が悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「起きていようといまいと、あなたには隣室で待機しておいてもらわないといけないのよ。これから明順のあせもを治してあげるのだもの。いくら衝立ついたてがあるといっても……。ねぇ?」


「っ! 俺はおとなしく隣室で待機しております!」


 両腕に抱えていた巻物を取り落としそうになった張宇が、赤い顔であたふたと隣室へ駆け込む。


 初華がくすくすと笑い声を上げた。


「あら。そんなにあわてなくても大丈夫よ、ちゃんとこちらの卓を片づけてからの話ですもの。でないと、お兄様が戻られた時に、お食事ができませんものね。時間もかかるから、張宇は明順が勧めた通り、少し仮眠をとっておくといいわ」


「で、では……。お言葉に甘えて、そうさせていただきます……」


 張宇が隣室から弱々しい声を返してくる。


 背中のあせもを《癒蟲》で治してもらうだけなので、さほど時間がかからないと思うのだが……。


 しかし、そんな疑問を口にすれば、張宇が気を遣って起きていると言い出しそうな気がして、明珠は口をつぐんだまま、黙々と手を動かした。


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