88 お兄様に頼まれて来ましたの その2


「さあ、明珠」


 張宇を追いやった隣室との内扉をぴっちりと閉め、きちんとかんぬきをかけた初華が、うきうきと声を弾ませて明珠を振り返る。


 誰もが見惚れそうなあでやかな笑顔なのに……。


 気圧けおされて、明珠はじりっと一歩後ずさる。


「張宇はあちらで休んでいるし、あせものことを言ったから、間違ってもこちらへ無断で入ってくることはないでしょうから……。ゆ~っくり楽しみましょうね♪」


 鈴を転がすような声で、初華がにこやかに告げる。


「あ、あの、楽しむって……? その、《癒蟲》をおびくださるんです……よね?」


 なぜだろう。笑顔のはずなのに、初華から放たれる圧がすごい。


 さすが龍翔の妹姫だと妙な感心を覚えるが、なんだか嫌な予感がする。


「ええ、もちろんよ。早く明珠のあせもを治してやってくれと、お兄様に頭を下げて頼まれましたもの。傷ひとつ残らぬよう治してさしあげましてよ!」


「いえあの、単なるあせもですから! もともと傷が残るようなものではありませんので……」


 何やら初華に大きく誤解されている気がする。


「というわけで、まずは脱ぎましょうか♪」


「は、はい。では少しお待ちください」

 衝立の向こうに引っ込もうとすると、初華に手を握って止められた。


「あら。ここにはわたくしと萄芭しかいないのだもの。わざわざ衝立の向こうに行くことはないでしょう?」


「ふぇっ!? で、ですが……」


 女同士なので、何も問題はないというのは頭ではわかっているのだが……。

 花の化身のような初華に、自分の貧相な身体を見せるのは気後れしてしまう。


「お優しい初華姫様は、呆れてもお口に出されないとわかっているんですけれど……。でも、恥ずかしいです……っ」


 顔が熱いのが自分でもわかる。


 両手で自分の身体を庇い、おどおどと初華を見つめると、初華が軽く目を見開いた。

 不敬を働いて不愉快に思われただろうかと詫びるより早く。


「やだわ、萄芭! どうしましょう!? こんなに可愛らしく困られたら、その顔をもっと見たくて、さらに困らせたくなってしまうわ!」


 明珠から視線をそらさぬまま、初華が困り果てた声で萄芭を呼ばう。


「どうしましょう!? 高圧的に命じてしまおうかしら? それとも、萄芭とわたくしの二人がかりで……っ!? わたくし手ずから帯を解いてあげても楽しそうですわね……っ!」


「あ、あの? 初華姫様……?」


 突然早口でまくし立てた初華に、びくびくと問いかける。静かな声で割って入ったのは萄芭だ。


「初華姫様。可愛らしいものを愛でられたいお気持ちはお察しいたしますが……。明珠が驚いております。もう少し、お手柔らかに……」


 主人をなだめる萄芭の淡々とした声にほっとしたのも一瞬。


「こういうものは最初が肝心なのですから。ちゃんと逃げられないように囲い込んでから、じっくりと進めなくては」


 まるで獲物を狙う獣のように目を細めて告げられた言葉に、ひぃぃっ、と怯える。


 しかも、ふだんはあまり表情を出さない萄芭が、楽しげに口元をほころばせているのが、さらに怖い。


 《癒蟲》であせもを治してもらうだけだと思っていたのだが……。

 いったい、これから何をされるのだろうか?


 と、初華がにっこりと明珠に微笑みかける。邪気など欠片も感じさせない華やかな笑み。


「ごめんなさいね、明珠。あなたを怖がらせてしまったみたいで。このところ、『花降り婚』のことで、お兄様にご心配やご迷惑をかけてばかりいたでしょう? そんなお兄様から、あなたをくれぐれもよろしく頼むと言われたことが嬉しくて……。つい、気合いが入りすぎてしまったの」


 照れたようにはにかむ初華に、明珠はぶんぶんと首を横に振る。


「いえ! お優しい龍翔様が、大切な初華姫様のご結婚のために力を尽くすことを迷惑と思われるなんて……っ! そんなこと、決してないと思います! こんな私にまでお気遣いくださる御方ですから……っ!」


 必死に言い募る明珠に、初華が「まあっ」と口元をほころばせる。


「そんな風に言ってもらえると嬉しいわ。でも、やっぱりお兄様にご迷惑ばかりおかけしているのは心苦しくて……」


 初華がしゅんと肩を落とす。

 雨に濡れた花のような風情は、こちらの胸まで痛くなるような可憐さだ。


 初華の憂いを晴らすためなら、どんなことでもしなければという気持ちになってしまう。


「少しでもお兄様にお喜びいただけるように、お礼がしたいの。そのためには明珠。あなたの協力が不可欠なのだけれど……」


 初華がすがるようなまなざしを明珠に向ける。


「どうかしら、明珠。わたくしに協力してくださらない?」


「は、はい! わ、私などでお役に立てるのでしたら、何でもいたします!」


 初華の愛らしさに、一瞬で頬が熱くなる。

 こんな可憐な初華に頼られて、否なんて言えるはずがない。もしいるとしたら、その者の心は鉛でできているに違いない。


「まあっ、嬉しいわ!」


 告げた途端、初華が打って変わった華やいだ声を上げる。


「明珠が力を貸してくれるのなら、百人力ね! お兄様も喜ばれること間違いなしだわ! うふふ、わたくしと萄芭もたっぷりと楽しめるでしょうし……」


 袖で口元を隠し、初華がこの上なく楽しげに笑う。

 たおやかな美貌はさすが皇女というべき優雅さなのに……。


 悪戯っぽく輝く黒い瞳に、なぜか安理と同じ光を見た気がした。


 いや、そんなことを天女もかくやという気品あふれる皇女様に思うなんて、失礼すぎる。


 明珠はぷるぷるとかぶりを振って、脳内に浮かんだ変な印象を払うと、気を取り直して初華に尋ねる。


「と、とりあえず、《癒蟲》で治していただけるように、上衣を脱いだらいいんですよね……?」


 初華が龍翔のために何をする気なのかはわからないが、明珠がもたもたしていて時間がなくなったら大変だ。


 意を決して帯に手をかけ、しゅるりとほどく。


 男物の上の衣を脱ぎ、さらしを巻いただけ姿になると、初華と萄芭が目を見開いた。


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