86 なんだか大仰に伝わってます!? その1


「明順! もう湯浴みは済んでおるか!?」


 いつになくあわてふためいた龍翔の声に、ちょうど夜着の帯を締め終わったところだった明珠は、急いで扉のかんぬきを外した。


 明珠が扉を開けるのを待つ間も惜しいと言わんばかりに、龍翔が気ぜわしく扉を押し開け、入ってくる。


「初華にきつく𠮟られた。わたしの不注意のせいで、おぬしの玉の肌を傷めてしまったやもしれぬと……っ」


 後ろ手に扉を閉めた龍翔が駆け寄ってくる。秀麗な面輪は、血の気が引いて悲愴なほどだ。


「ちょっ、ちょっと待ってください!」

 大きな手で両肩を掴まれ、明珠はあわてて声を上げた。


 初華が龍翔に伝えてくれたのはありがたいが、何やらかなりおおごととして伝わってしまったらしい。


「大丈夫ですから落ち着いてください!」


 明珠の両肩を掴む龍翔の手は痛いほどだ。かすかに震える指先に、明珠の心まで焦燥に浮足立つ。


「落ち着いてなどいられるものか! わたしのせいでお前に――」

「龍翔様のせいじゃありませんから! 暑さであせもができただけです!」


「あせ、も……?」


 呆然とおうむ返しに呟いた龍翔が、へなへなと膝から崩れ落ちる。


「龍翔様っ!?」


 あわてて支えようとするが、肩を掴まれている上に、そもそも明珠の体格で長身の龍翔を支えられるわけがない。


「す、すみませんっ! 単なるあせもなのに、重大事のように伝わってしまい、龍翔様を驚かせてしまいまして……っ」


 明珠もぺたんと床に座り込み、龍翔の面輪を見上げる。


 告げた内容がよほど想像の埒外らちがいだったのか、龍翔は魂が抜けたようにぼんやりした表情だ。


「ほ、本当に申し訳ありません……っ! その……っ、晟藍国は龍華国より暑いですし、さらしを巻いているせいで、その、どうしても汗をかくことが多くて……っ」


 あせもなどという取るに足らぬことで龍翔を驚かせたなんて、叱られてしまうだろうか。

 こわごわと主の秀麗な面輪を見上げていると。


「よ……」

「よ?」


「よかった……っ。初華に告げられた時は、お前に取り返しのつかぬことをしてしまったのだと……。いやっ、もちろん、お前にあせもを作らせてしまって、よかったも何もないのだが。本当にすま――」


「わぁっ! おやめくださいっ! 龍翔様が謝られる必要なんてございません!」


 土下座しそうな勢いの龍翔を、泡を食って押し留める。

 と、ぴたりと動きを止めた龍翔が、広い肩を悄然しょうぜんと落とした。


「そう、だな……。いまさら謝ったところで、お前に許してもらえるはずが……」


「ふぇっ!? あの、龍翔様!? 何か盛大に勘違いなさってませんか!? 許すも何も、そもそも龍翔様は何ひとつ悪いことをなさってませんから!」


 龍翔はいったいどうしてしまったのだろう。


 これほど浮き沈みの激しい龍翔は見た記憶がない。

 きっと、あせもが何かよく知らぬ初華が、大仰に伝えてしまったに違いない。


「そんなわけはないだろう!」


 だが、龍翔は明珠の言葉にかたくなな様子でかぶりを振る。


「主人として、お前にしかるべき着物を用意せねばならぬというのに、それをおこたったばかりか、お前の体調に気づけてやれず……っ」


 眉間に深い皺を刻んだ龍翔の声は、この上なく苦い。

 まさか、あせも程度で龍翔がここまで自分を責めるとは、思ってもみなかった。


「龍翔様! お願いですから、そんなにご自分を責めないでくださいませ! この程度のことで、龍翔様をわずらわせては、と相談しなかったのは私の責任ですし、それに、初華姫様がちゃんと薄手の着物をご用意くださいましたので!」


 少しでも龍翔の憂いを晴らしたくて、明珠は必死に言葉を紡ぐ。自分などのことで、これ以上、龍翔をわずらわせたくない。


「そう言われれば……。いつもの夜着と違うものを着ておるな」


 龍翔が、いま初めて気づいたらしく呟く。


「そうなんです!」

 龍翔の表情が緩んだことにほっとして、明珠は大きく頷く。


「いったいどうなさったのかは存じませんが、萄芭とうはさんがすぐさま用意してくださって……っ。すごいんですよ! 夜着だけじゃなく、お仕着せまで何着もくださったんです! しかも、薄手なだけじゃなくて、上質な布地で仕立てもしっかりしていて……。いくら感謝してもしたりません!」


 興奮気味に告げると、龍翔の形良い眉がきゅっと寄った。


「そうか……。それは、初華と萄芭に重々、礼を言っておかねばならんな。確かに、前よりも涼しげだ」


 龍翔の右手がそっと明珠の腕を撫でる。


 少し骨ばった指の形がわかるほど薄い布地。袖丈も短めなので、あたたかな手のひらが素肌にふれ、くすぐったさに声がこぼれそうになる。


 だが、そんなことより。


「あの……。初華姫様にお手間をかけてしまったことを、怒ってらっしゃいますか……?」


 初華に礼を言わねばと告げた言葉とは裏腹に、龍翔の表情はひどく苦い。


 やっぱり、つまらぬことで初華に迷惑をかけたことを怒っているのだろう。


「も、申し訳――」


 ぺたりと床に座り込んだ姿勢のまま、頭を下げようとして。

 不意に、ぐいと抱き寄せられる。


「お前がそのように喜ぶ姿を見られるのなら……。わたしが、お前に贈りたかった。気づいてやれなかった己の節穴ぶりが、ほとほと情けない」


「いえあの……っ」


「というか」

 深い溜息が明珠の耳朶を震わせる。


「頼むから、困ったことがあった時は、遠慮せずにわたしを頼ってくれ。どんなささいなことでもかまわぬ。わたしの知らぬところで、お前が思い悩んでいるほうがつらい。……それとも、わたしはお前に相談してもらえぬほど、不甲斐ないか?」


「そ、そんなこと! とんでもありませんっ!」


 ぶんぶんぶんぶんぶんっ! とかぶりを振ろうとするが、抱きしめられていてかなわない。


 夜着が薄手になった分、湯上りの龍翔の体温がいつも以上に近く感じられる気がして、心臓がばくばくと騒ぎ出す。


 うるさく騒ぐ心臓の音が龍翔にまで届くのではないかと心配になってしまう。身動じろぎすると、そっと腕がほどかれ、ほっとした。


「すまん。床に座らせたままだったな」

 立ち上がった龍翔が、明珠に手を貸してくれる。


「いえ……」

 うつむいたまま、明珠はもう一度、ふるりとかぶりを振った。


「その……。『花降り婚』のことでお忙しい龍翔様を、私などのことでわずらわせたくなかったのです。そのせいで、ご心配をかけてしまいまして……。申し――、っ!?」


 詫びようとした瞬間、龍翔の指先に唇を押さえられる。


「お前のせいではないから、謝ってくれるな。お前に謝られては、立つ瀬がない」


「で、ですが……」


 では、なんと言えばよいのかと困って秀麗な面輪を見上げると、龍翔がくすりと笑みをこぼした。


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