81 わたしがよいと言うまで、決して衝立から顔を出すでないぞ その1


「龍翔殿下。ご在室でいらっしゃいますか?」


 ほとほとと扉が叩かれると同時に、柔らかな玲泉の声が聞こえてきて、ちょうど龍翔に茶を出そうとしていた明珠は、思わず主の顔をうかがった。


「明順。お前は衝立ついたての向こうへ隠れておれ。わたしがよいと言うまで、決して顔を出すのではないぞ。よいな?」


「は、はいっ」


 こくりと頷くと、卓の上に盆を置き、命じられた通り衝立の向こうへ駆け込む。


 港から馬車で王宮へと案内された明珠達は、待つほどもなく割り当てられた部屋に通された。


 国王の私室もある最上階に位置するこの部屋は、高貴な客人が滞在するための部屋なのらしい。明珠が見たこともない海の彼方の異国の品々が飾られており、異国情緒にあふれている。


 いつものように、龍翔と明珠が同室で、内扉でつながった部屋に季白達が泊まる手はずだ。


 初華や玲泉の部屋もすぐそばにあり、なんと初華の部屋は藍圭の私室のすぐ隣にある王妃の部屋なのだという。


 藍圭が初華を未来の正妃として大切に扱ってくれているのだと思うと、明珠まで嬉しくなる。


「何用だ?」


 龍翔が厳しい声を扉の向こうへ投げかける。


「わたしはおぬしに用などないぞ。瀁淀ようでんの屋敷へ行くのだろう? さっさと立ち去れ」


「これは異なことを」


 龍翔の言葉を機にした様子もなく、扉の向こうで玲泉がくすりと笑みをこぼす。


「瀁淀の元へ行くからこそ、こちらへ参ったのですよ。瀁淀の屋敷へ行けば、なかなかお会いできぬでしょう? その前に、殿下と打ち合わせをしておくべきかと思いまして」


 玲泉の言葉に龍翔が押し黙る。


「藍圭陛下のお耳に入っては困ることもありましょう。……中に、入れていただけませんか?」


 玲泉の問いかけに、龍翔が小さく舌打ちした音が聞こえる。


 ややあって、扉が開く音と、招き入れられた玲泉のかすかな足音が聞こえた。


「おや。明順はいないのですか? 衝立の向こうにでも、大事に隠してらっしゃるのですかな?」


「おぬしの下らぬ戯言ざれごとにつきあう気はない。用件だけをさっさと述べよ」


 龍翔が苛立たしげに促す。


 いつも冷静沈着な龍翔がこれほど感情をあらわにするのは珍しい。よほど玲泉とはそりが合わぬのだろう。


「瀁淀に近づいて相手の警戒を解いて油断させ、大臣の座から失脚させられるだけの悪事の証拠を掴む……。己の役目は承知しておりますが、わたし一人では調べられることにも限りがこざいます。従者達も連れて行くとはいえ、わたしの従者は殿下の従者がたのように、こういったことにけているわけではございませんので……。ですので、わかったことはその都度、殿下にお伝えしたいと考えておりますが、それでよろしいですか? わたしが自ら動いて瀁淀の疑いを招くわけにはまいりませぬでしょう?」


「それは確かにそうだな。せっかく瀁淀のふところに入ることができるのだ。お前まで疑われる事態になっては、調べが難航する。詳細な調べは安理にさせるゆえ、おぬしは手がかりを得たらすぐに知らせよ」


 最初はどうなるかと心配したが、さすが龍翔だ。


 玲泉に応じる龍翔の声はいつも通り落ち着き払ったもので、明珠は衝立の陰でほっとする。


「ありがとうございます。殿下から頼もしいお言葉をいただいて安心いたしました。調べたことはこまめにお知らせいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」


 玲泉の声が安堵に柔らかくなる。


「殿下へのご報告は、ご機嫌うかがいの文に暗号をひそませる形でお送りいたします。一見したところはふつうの文としか見えぬようにいたしますので、もし瀁淀の手の者に見られても、そう見破られることはございませんでしょう。《蟲》を使うことも考えましたが、瀁淀が下手人だとすれば、敵方にも術師がいるのは確実ですので、避けたほうが無難かと思いまして」


「そうだな。隠れて《蟲》を使っていることを知られれば、嫌でも警戒されるだろう。お前の提案通りでよい。こちらから文を送る場合も気をつけよう」


「ありがとうございます。……それと。瀁淀の元へ参る前に、折り入って殿下に申し上げたき議が」


「……何だ?」


 低くなった玲泉の声に、龍翔の声も緊張を孕んで硬くなる。


「そう警戒なさらないでください」

 小さく笑みをこぼした玲泉の声が明珠の耳に届く。


「瀁淀の屋敷へ身を寄せた後のことですよ。藍圭陛下と初華姫様のご婚礼を阻止するため、瀁淀はわたしを取り込もうと躍起やっきになることでしょう。わたしも、瀁淀の懐に深く入り込むため、多少の譲歩はするつもりでございます。……たとえそれが、余人から見れば、藍圭陛下や初華姫様の障害と思えることであろうとも」


 静かに告げられた玲泉の言葉に、明珠は息を飲む。

 衝立の向こうの明珠の様子には気づかず、玲泉が淡々と言を継いだ。


「虎穴に入らずんば虎子を得ずと申します。瀁淀の口を緩ませるためには、こちらも便宜を図ることが必要かと。ですが」


 いったん言葉を切った玲泉が、芯の強い声を出す。


「龍翔殿下には、どうかわたしの真意を知っておいていただきとうございます。瀁淀の味方をしているように思えたとしても、それは見せかけ。差し添え人であるわたしの真の目的は、藍圭陛下と初華姫様の幸せなご結婚にほかならぬ、と」


「……あいわかった」


 龍翔が感じ入った声を出す。


「おぬしの深慮は承知した。おぬしへ抱いていた印象を改めなければならぬようだな。藍圭陛下と初華のために、そこまで身をしてくれるとは……。兄として、感謝する」


「殿下。どうぞお顔をお上げください。もったいないお言葉でございます。わたしはただ、龍華国の高官として、瀁淀ではなく、藍圭陛下が国王として晟藍国を治められるのが、龍華国のために最もよいと判断したまで。あとは……。藍圭陛下の友人の一人として、陛下のお幸せを心より祈っているだけでございますから」


 いつもの玲泉とは別人のような、真面目で穏やかな声音。


 龍翔に初華、さらには玲泉まで力になってくれるのなら、本当に瀁淀を追い落とすことも不可能ではない気がしてくる。


 明珠は玲泉には見えぬ衝立のこちら側で、どうか玲泉が無事、瀁淀の悪事の証拠を掴んでくれますようにと、両手を合わせて祈る。


 叶うなら、玲泉に激励の言葉をかけたいところだが、許可があるまで出てきてはならんと龍翔に厳命されているため、それはできない。


 どうしたらいいだろうかと、思い悩んでいると。


「龍翔殿下、失礼いたします。玲泉様の従者である唯連いれんと申します。恐れながら、我が主はこちらにいらっしゃいますでしょうか?」


 扉が叩かれ、遠慮がちな唯連の声が聞こえてきた。


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