79 華揺河の瑠璃 その3


 安理の言葉に明珠は前方に視線を向ける。


 船は幅広い華揺河を斜めに横切るようにして晟都に近づきつつある。行く手に見えるのは驚くほど広い船着き場だ。


 龍華国を出発する時も、船着き場の立派さに驚いたものだが、水上交易が盛んな晟都の船着き場は龍華国の比ではない。大小さまざまな商船や漁船、軍船までもが、ところ狭しと停泊している。


 船着き場の中央にひときわきらびやかな船ばかりが停まっている一画があるが、おそらく王族専用の船着き場なのだろう。


 おととい瀁淀ようでん瀁汀ようていが乗っていた立派な船も停泊している。


 その岸辺に、藍圭の出迎えとおぼしき十数人の人々が見えた。


 先頭に立つのはでっぷりと太った身体にきらびやかな衣を纏った大臣の瀁淀と、息子の瀁汀だ。


 瀁淀の姿を見とめた藍圭の表情が硬く引き締まる。


「藍圭様」

 藍圭の両手を握ったままの初華がにこやかに微笑んだ。


「打ち合わせた通り、どうぞ胸を張ってお戻りください。藍圭様が晟都を出られたのは、龍華国に礼を尽くして、花嫁であるわたくしを迎えに来てくださったため。それ以外の理由はございません。藍圭様のご厚情には、わたくしだけでなく、兄や玲泉様も感じ入っておりますのよ。ですから、堂々と瀁淀達の前にお立ちくださいませ」


 藍圭は瀁淀が牛耳る晟都で身の危険を感じたため、浬角りかくや信の置ける従者達と、初華が到着するまでの間、汜涵しかんに避難したのだと聞いている。


 だが、それを表立って告げることは決してできない。


 そんなことをすれば、藍圭と瀁淀が不仲であることが公になるだけでなく、国王である藍圭が、大臣である瀁淀の風下に立っているという印象を広めてしまう。


 たとえ、今はそれが真実であったとしてもそんな噂が大々的に広まれば、藍圭の権威は地に落ちてしまうだろう。


 まだ幼い藍圭は、ただでさえ軽んじて見られがちなのだ。藍圭が瀁淀の脅威を取り除いた時のためにも、不穏の種は最初から芽吹かせぬほうがよい。


「わかりました」


 初華の言葉に、藍圭が緊張した面持ちで頷く。


「初華姫様。もうかなり港に近づいております」

 萄芭とうはが人目を避けるための薄絹を垂らした豪奢ごうしゃな傘を初華に差しかける。


「仕方がないこととはいえ、いちいち身を隠さねばならないなんて、身分の高い女の身は、窮屈きゅうくつなことね」


 緊張を孕んだ空気を追いやるかのように、ふう、と初華が大仰に吐息する。

 だが、片手は仲の良さを見せつけるように藍圭とつないだままだ。


「もうしばらくお待ちください」

 藍圭が申し訳さなそうに詫びる。


「婚礼が済み、お客人の立場から、この国の正妃となれば、王宮ではもう少し、気兼ねなく過ごしていただけることでしょう。ですが……」


 藍圭の愛らしい面輪が、困ったように歪む。


「複雑な気持ちなのです……。わたしの妻となってくださる初華姫様は、こんなにお美しいのだと誇りたい一方で……。他の者があけすけに初華姫様を見るのが、悔しい心地もするのです……」


「まあっ、藍圭様……っ」


 初華の声が抑えきれぬ喜びに弾む。

 傘から垂れた紗のせいで表情はうかがいづらいが、顔は見えずとも、華やいだ声が初華の喜びを雄弁に伝えていた。


「そのように藍圭様に思っていただけるなんて、初華は嬉しゅうございます……っ」


 藍圭とつないだ初華の指先に力がこもる。


「いやはや、藍圭陛下は人たらしでいらっしゃいますね。そのお年で女心をくすぐるのがお上手とは、将来が楽しみでございます」


「え?」


 玲泉が褒めそやすが、当の藍圭は何を褒められたのかよくわかっていない様子だ。


「これは本格的に藍圭陛下に教えをうて、妻となる女人を喜ばせるすべをご教授いただかなくてはなりませんね」


 玲泉の言葉に、「なんと……っ!?」と、藍圭が顔を輝かせる。


「龍華国を訪れた際には、妻としたい女人に出逢えていないと嘆いておいででしたが……。玲泉殿も、ついにこの方と想い定めた姫君に出逢われたのですね! おめでとうございます! ご婚礼はもうお決まりなのですか?」


 藍圭の言いようから察するに、玲泉は女人にふれると不調となる体質を伝えていないらしい。


「それが……」

 端麗な面輪を切なげに歪め、玲泉が嘆息する。


「残念ながら、まだわたしの求婚を受け入れてもらえぬのです」


「っ」

 玲泉の言葉に、明珠は思わず息を飲む。


 もしかして、玲泉の求婚を受け入れていないというのは、明珠のことだろうか。いや、きっと藍圭の緊張をほぐすために言っているだけに違いない。


「玲泉殿のような素晴らしい方の求婚をお受けにならぬ女人がいるとは……。にわかには信じられません! いったい、どのような方なのでしょうか?」


 興味津々な顔で藍圭が問う。


「とても……」

 思わず見惚れそうになる甘やかな笑みが玲泉の口元を彩る。


「とても純真で愛らしい、可憐な野の花のような娘なのです」


 ほんの一瞬だけ、玲泉の視線が明珠に向けられる。


 ひと撫でだけの瞬きするほどの間。だというのに、ぱくりと心臓が跳ねて、居心地に悪さに、明珠はすがるように龍翔の袖を掴む手に力を込めた。


 安心させるように明珠の手の甲を撫でた龍翔が、身体ごと藍圭に向き直る。


「玲泉殿の軽口のおかげで、藍圭陛下の緊張もほどけたようでございますね。陛下、そろそろ港へ着きますが、どうぞこのまま、泰然となさっていてください。藍圭陛下の隣には初華が、すぐ後ろにはわたしや玲泉が控えておりますゆえ」


「は、はい!」

 藍圭の顔が引き締まる。


 もう一度、最後に手の甲を撫でた龍翔が、包んでいた明珠の手をそっと放す。明珠は我に返って、あわてて数歩後ずさった。


 従者である明珠が第二皇子である龍翔と並んで出迎えを受けるわけにはいかない。


 そそくさと季白や張宇、安理達と同じ列に並ぶと、明珠は季白達にならって膝をついて頭を垂れた。


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