79 華揺河の瑠璃 その2
玲泉の言葉に、龍翔の陰に隠れた明珠は緊張に身を強張らせる。と、明珠の手を包む龍翔の手のひらに力がこもった。
そのあたたかさと力強さに、ゆるゆるとこわばりがほどけ、胸の中に安堵が湧いてくる。
「掃き清められるべきはおぬしであろう? おぬしなど、明順の顔を見ることすらおこがましい。昨日、明順に何をしようとしたか、忘れたとは言わせんぞ」
玲泉の視線を遮るように一歩踏み出した龍翔が、刃よりも鋭い視線で玲泉を睨みつける。
が、玲泉は龍翔の苛烈な怒気など柳に風とばかりに受け流し、挑発的に唇を吊り上げた。
「おやおや。ご自身ができぬことをわたしがしようとしたからといって、嫉妬なさるのは見苦しゅうございますよ?」
「言わせておけば、世迷言を……っ!」
龍翔の声が激昂にひび割れる。
「わたしを卑劣なおぬしと一緒にするなっ! 大切な従者を傷つけるようなことをするわけがなかろう! 今日は木剣でなく真剣で相手をしてやる。妄言をまき散らすその首を華揺河に叩き込んでやるゆえ、覚悟せよ」
「あ、
不穏極まりない龍翔の発言に、藍圭が目を見開いて驚愕の声を上げる。
「……玲泉様。いったい、何をなさいましたの?」
兄とそっくりな冷ややかなまなざしで玲泉を睨みつけたのは初華だ。
玲泉は口元に微笑みを
「愛らしい明順と二人きりになって、愛でようとしただけなのですがね。陛下の岩より固い守りに、あえなく阻止されてしまいました」
「それはようございましたわ。明順にとってだけでなく、玲泉様にとっても」
あでやかに微笑んだ初華が、にっこりと告げる。
「でなければ、お兄様に助太刀して、侍女達も総出で玲泉様を追い詰めて、華揺河へ叩き落しておりましたもの。いいえ、川へ叩き落すだけでは生易しいですわ。ここはやはり、お兄様がおっしゃる通り首をはねてしまうのが、後顧の憂いも断てて、ようございますわね」
天女もかくやという微笑みをたたえて、初華がとんでもないことを口にする。
まなざしの冷ややかさと過激極まる提案に、ああ、龍翔様と初華姫様はやっぱり血を分けた兄妹なのだと、明珠は妙なところで感心した。
一方、玲泉は初華の苛烈な言葉にも動じた風もなく、「おやおや、これは恐ろしい」と、さして恐ろしそうな様子も見せず呟く。
「初華姫様は、たおやかなご容貌とは裏腹に、なかなか
「ええぇっ!?」
急に話を振られた藍圭が目を白黒させる。
「失礼なことをおっしゃらないでくださいませ!
きっ! と玲泉を睨みつけた初華が藍圭を振り返り、信じてほしいと言いたげに真剣な面持ちで身を乗り出す。
「藍圭様。どうぞ、玲泉様の戯言など、真に受けないでくださいませ。わたくしは、藍圭様を
「い、いえ……っ」
焦った様子で首を横に振った藍圭に、初華の面輪が凍りつく。それを見た藍圭が、あわてて「ち、違うのです!」と声を張り上げた。
「誤解です! 初華姫様が恐妻になられるなんて、
あわあわと藍圭が懸命に言い募る。
「わたしはまだまだ若輩者です。至らぬ点も数多くあることでしょう。ですが、仮にも国王であるわたしに
焦るあまり、ぱたぱたと両手を振りながら説明する藍圭に、初華が感動したように震える指先で口元を押さえる。
「藍圭様……っ! なんと素晴らしいお心映えでございましょう! わたくし、心から感動いたしましたわ!」
瞳を潤ませて告げた初華が、両手でぎゅっと藍圭の手を握る。
「本当に、玲泉様は藍圭様の爪の垢でも
ふう、と嫌味をにじませて嘆息した初華に、なぜか玲泉が嬉々として身を乗り出す。
「それは素晴らしい案でございますね! 藍圭陛下の爪の垢、ぜひともいただきとうございます」
「っ! 前言を撤回しますわ! 玲泉様のお心の汚れは、藍圭様の純真さでも清められそうにございません! 爪の垢はお兄様にお任せいたしますわ」
「……
「り、龍翔様っ!?」
「義兄上っ!?」
龍翔のとんでもない発言に、明珠と藍圭はそろって目を丸くする。
が、初華は大真面目な顔つきで、
「そうですわね。藍圭様の身を案じるのでしたら、それがよいのかもしれませんわ……」
と、真剣に考え込んでいる。
明珠の背後では、
「ぶっひゃっひゃっひゃひゃ……っ! ひーっ、やべぇっ、腹がいてぇっ! 龍翔サマも初華姫サマも容赦がねぇっス!」
と安理が腹を抱えて大笑いしていた。
当の玲泉といえば、
「毒薬とは、なかなか物騒でございますね」
と、まるで珍しい菓子でも勧められたかのように悠然としている。
余裕に満ちた玲泉の様子に、明珠もようやく、これが冗談なのだと気がついた。
だが、冗談にしてもびっくりした。身分の高い方々の冗談というのは、このように過激なものなのだろうか。藍圭も驚いていたところを見るに、もしかしたら龍華国の宮中だけの流行りなのかもしれない。
「いやも~、皆サマ、最っ高に面白いっスね~♪」
ひーひーと遠慮のない笑い声を響かせていた安理が、まなじりに浮かんでいた涙をぬぐう。
「ほんっと、ずーっと見て笑ってたいくらいなんスけど……。残念ながら、そろそろおしまいにしなきゃいけないみたいっスよ~? ある意味、一番、一服盛りたい御仁が、出迎えの準備をしてくれてるみたいなんで♪」
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