79 華揺河の瑠璃 その1


「わぁ……っ!」


 晟藍国の王都である晟都せいとにまもなく到着すると知らされ、藍圭や初華、龍翔や季白達とともに甲板に出た明珠は、沿岸に見える晟都の街並みに歓声を上げた。


 下流域にまで下ってきた華揺かよう河は、両岸がかすんで見えるほど川幅が広い。

 実家の近くにも川はあったが、幅はせいぜい二丈(約六メートル)ほどのもので、視界いっぱいに広がる大河を見たのは、今回の旅路が初めてだ。


 しかも、龍翔に教えてもらったところによると、華揺河の先は海につながっていて、そこは見渡す限り、ずっと波打つ水面が続いているのだという。


 龍翔に仕えるようになってからというもの、毎日のように新しいことを知る日々で、本当に驚きの連続だ。


 実家で家計を支えるために働きながら、弟の順雪じゅんせつや義父の寒節かんせつと暮らしていた頃は、日々を暮らしていくのに精一杯で、故郷の町の外に出る日が来ることすら、考えたこともなかったというのに。


 晟都は遠目に見ても、活気のある華やかな街並みであることが一目で知れた。


 漆喰しっくいの白壁に、青みがかった瓦の建物が立ち並ぶさまは、陸の上に連なる波濤はとうのようだ。


「すごいですねっ、龍翔様! 龍華国の王都とはまだ違ったおもむきですねっ!」 


 隣に立つ龍翔を見上げ、思わず歓声を上げると、幼子をあやすようによしよしと頭を撫でられた。


「そうだな。異国情緒のある美しい街並みだ。ほら、港に何隻もの船が停泊しているだろう? 恐らくあれらは、河口にある晟藍国最大の貿易港、碧栄へきえいで取引した遠い異国の荷を運んできた船だ」


乾晶けんしょうの総督官邸で見たような品々でしょうか……?」


 乾晶で初めて総督官邸に赴いた日に通されたきらびやかな応接室を思い出す。

 あの時は、初めて見る高価な異国の品々がところ狭しと並ぶ様子に、目がくらむかと思った。


「乾晶で見たのは、砂漠を越えて運ばれてきた品々だがな。こちらは、海の彼方から運ばれてきた品々だ」


「海の、彼方……」


 明珠には想像もつかぬ世界だ。


 不意に、揺れる船の甲板に立つ自分の足元がなんだか心もとない不安に駆られて、明珠は無意識に龍翔の衣の袖を掴んだ。


 目の前に広がる世界があまりに広すぎて……。なんだか、ただでさえ取るに足らない存在である自分が、風が吹けば飛ばされる塵芥ちりあくたのように感じられてしまう。


「晟都の王宮には、数多くの異国からやってきた美しい芸術品や、珍しい品々があちらこちらに飾ってあるんですよ。楽しみにしていてください」


 明るい声を上げたのは、明珠達のそばで、初華と並んで嬉しそうに目を細めて晟都の街並みを見つめる藍圭だ。


 藍圭の声に、明珠はいつのまにかうつむいていた視線を上げる。


 教えられずとも、王宮はすぐにわかった。

 家々よりも頭一つ抜きんでた白亜の宮殿。波濤を連想させる家々の奥に見える王宮は、波を切って進む大きな船のようにも見える。


「まあっ、それは楽しみですわ! わたくし、龍華国では、滅多に王城から出る機会がありませんでしたから……。遠い異国のお話には、ひときわ興味がありますの! 藍圭様、王宮へ着いた時には、ぜひともご案内してくださいませ!」


 胸の前で両手を合わせた初華が、華やいだ声を上げる。初華の後ろでは、萄芭とうはが主の姿を下々の者から隠す傘を用意して控えているが、もう少し港に近づくまでは、初華の好きにさせておくらしい。


「もちろんです! 晟都に着いた当初は慌ただしいかと思いますが、必ずご案内いたします!」

 藍圭が愛らしい面輪を上気させて力強く頷く。


「それは楽しみですわ。ですが」


 初華が同性の明珠でも思わず見惚れてしまいそうなあでやかな笑みを浮かべる。


「急がれる必要はございませんわ。だって、わたくしと藍圭様は夫婦としてずっと一緒に過ごすのですもの。機会はいくらでもございますわ」


「初華姫様……」


 きゅ、と手を握った初華に、藍圭がうっすらと頬を赤くする。


 仲睦まじく手をつなぐ二人の姿に、明珠は自分がまだ龍翔の袖を掴んだままであることに気がついた。


「す、すみませんっ」


 あわてて放そうとすると、明珠の手を押さえるように、龍翔の大きな手に上から包まれる。


「よい。そのまま、わたしのそばにいろ」


 緊張を孕んだ声に、何事かと龍翔の視線の先を追えば、ちょうど甲板に出てくる玲泉の姿が見えた。


 瞬間、はからずも今朝見てしまった夢を思い出し、袖を掴む手に思わず力がこもる。


 そんな明珠の内心など知るよしもない玲泉が、つ、と優美な仕草で晟都へ視線を向けてから、にこやかに藍圭を振り返った。


「あれが『華揺河の瑠璃るり』と名高い晟都の街並みでございますか。藍圭陛下が治められるにふさわしい、まことに美しい都でございますね。この目で見ることが叶い、幸甚でございます」


「お褒めいただき光栄です。……見た目ほど、内情は綺麗ではございませんが……」


 ぺこりと玲泉に頭を下げた藍圭の面輪が、憂いに沈む。

 藍圭にとっては、ほんの数日前に身の危険を感じて後にした都なのだから。


 これから藍圭を待ち受けるもののことを考えると、明珠の胸まで痛くなる。が、玲泉の優雅な笑みは変わらない。


「ご心配には及びません。汚らわしいものは掃除してしまえばよいのです。隠れている悪党共まで、一斉に。……が、今は主の陰に隠れてしまっている可愛いうさぎの顔を見たいものですね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る