78 変な夢を見て、寝ぼけてしまって その1


 身体があたたかなものに包まれている。


 うまく息ができない苦しさに、くちづけをされているのだと、明珠はぼんやりした頭で考えた。


 ああ、ならば龍翔様だ。


 そう思うだけで、ぱくりと心臓が跳ね、胸の奥にほのかな明かりがともる気がする。


 恥ずかしい。けれども、同時にどこか甘くて。


 だが、このままでは息ができなくなってしまう。それは困る。

 身動みじろぎするが、あたたかな身体はまとわりつくように明珠に巻きついて離れない。


 いや、龍翔の引き締まった体躯は、こんなに柔らかだっただろうか……? と疑問に思うと同時に。


「可愛い明順」


 不意に聞こえた囁きに、明珠は身を強張らせた。


 龍翔は二人きりの時には、「明順」と偽の名を呼んだりしない。

 それに、同じ耳に心地よく響く美声でありながら、心の芯まで染み入るような龍翔の優しい声とは違う、どこかからかうような声音は。


「玲――、っ!?」


 驚愕に声を上げようとした瞬間、さらに深くくちづけられ、恐慌に陥る。


 息ができない。怖い。

 何より。


「いや――っ!」


 全身の力を振り絞り、暴れながら叫んだ声で――。


 明珠は、夢から目が覚めた。



「明珠? どうした?」


 はあっ、はあっ、と頭まですっぽりかぶっていた布団を押しのけ、荒い息を吐く明珠は、衝立ついたての向こうからかけられた声に、びくりと肩を震わせた。


「あ……」


 龍翔の声だ。

 そう思った途端、胸の奥から安堵があふれてきて、涙となってこぼれ落ちる。

 同時に、先ほどのが夢だと知って、心の底からほっとした。


「龍翔、さま……っ」

「どうした? 何があった?」


 衝立の向こうの龍翔が気遣わしげに問う。秀麗な面輪を心配そうにしかめる姿まで目に浮かぶようだ。


 船室の窓から差し込む光はうっすらと明るい。今が何時くらいかはわからないが、明珠の寝言のせいで龍翔を起こしてしまったのだとしたら、申し訳なさすぎる。


「り、龍翔様を起こしてしまい、申し訳ありませんでしたっ。変な夢を見て寝ぼけてしまって、その……っ」


 夢の内容が甦り、かぁっと顔が熱くなる。


 くちづけをする夢を見たなんて、恥ずかしすぎる。

 尻切れとんぼになりつつ詫びると、衝立の向こうの龍翔が押し黙った。と。


「……また、賊に襲われた時の夢を見たのか?」


 低い声で心配そうに問われ、明珠は「ふぇ?」とほうけた声を上げた。


「あっ、いえ! 違うんです! 賊の夢ではないんですっ。そうじゃないんです、けど……」


 龍翔の声を聞いた拍子に、安堵のあまりこぼれてしまった涙を、ごしごしと袖でぬぐう。


「だ、大丈夫ですからっ。ですから、龍翔様はもう少しお休みに――」

「涙声のお前を放って眠るなど」


 龍翔の穏やかな声が、優しく、しかし決然と明珠の言葉を遮る。


「そのようなこと、できるはずがないだろう? ……それとも、わたしには言いたくないことか?」


「いいえっ、その……っ」


 わずかに沈んだ声に、反射的にかぶりを振ると、「そちらに行ってもよいか?」と遠慮がちに問われた。


「は、はいっ」


 あわててざっと自分の姿を確認し、寝乱れた夜着の合わせ目や裾を直しながら、こくりと頷く。靴を履いて床に降り、はねのけてしまったせいで床に落ちそうになっていた掛け布団を寝台の上に畳んで置き直したところで、龍翔が衝立のこちら側に姿を現した。


 変な夢を見たせいだろうか。凛と涼やかな姿を見ただけで、どきどきと心臓が騒ぎ出す。

 寝起きなので当然ながら龍翔も夜着で、つややかな長い髪もほどかれたままだ。


「何があったのだ?」


「そ、その……」


 相対した龍翔に問われ、明珠は思わずうつむいた。ほどいたままの髪が、さらりと肩をすべる。


 鏡を見なくても、顔が真っ赤になっているのがわかる。龍翔に来てもらったものの、いったい何をどう説明すればいいのかわからない。


 くちづけをする夢を見たなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。「やっぱり何でもないんです」と告げるより早く。


「明珠?」


 前かがみになった龍翔の手が、髪で隠れた頬に伸びてくる。


 そっと頬にふれられた瞬間、明珠は「ひゃあぁぁっ!?」とすっとんきょうな声を上げて飛びのいた。

 その拍子に、がつんっ、と寝台にしたたかに足をぶつける。


「あっ」

 よろめいたところを、ぐい、と龍翔に手を引かれて抱きとめられる。


「す、すみません……っ」


「……昨日の」

「え?」


 明珠の身体に腕を回したまま、龍翔が引く声をこぼす。


「昨日はわたしを気遣って怖くないと言っていたものの、やはり『おしおき』が怖かったのではないか……?」


 聞いているこちらの胸まで痛くなるような切ない声。


「ち、違いますっ!」


 自分が龍翔にこんな声を出させているのだと思うと、いても立ってもいられず、明珠は必死にかぶりを振った。


「そ、そのっ、く、くくく……っ、えっと、あの。変な夢を見たのが恥ずかしくて……っ。なので、龍翔様の急にふれられてびっくりして……っ」


 恥ずかしさに、首が折れそうなくらい下を向く。

 いまや、顔だけではなく耳の先まで真っ赤になっているに違いない。


「くちづけ?」

 明珠が言えなかった言葉を、龍翔が的確に口にする。


「夢の中で、誰とくちづけていたのだ?」

「っ!?」


 まさか、そこまで突っ込んで聞かれると思っていなかった明珠は、息を飲んで龍翔を見上げる。だが、龍翔の追及は緩まない。


「嫌、と叫んでいただろう?」


 まるで、己が口にした言葉が、刃と化して我が身を貫いたかのように、龍翔の秀麗な面輪が苦く歪む。


「やはり、夕べお前に無体な仕打ちをしたせいで、嫌われたのではないか? 本当にすま――」


「違うんですっ!」


 謝罪を紡ごうとした龍翔の口を、無我夢中で手で押さえる。龍翔が虚を突かれたように大きく目を見開いた。


 滅多に見られない龍翔の驚愕した顔に、とんでもないことをしてしまったとおののく。だが、口からあふれる言葉は、川が決壊したかのように止まらない。


「龍翔様を嫌に思ったりなんてしていませんっ! そのっ、最初は龍翔様だと思っていて……。それなのに、急に「明順」と玲泉様のお声で呼ばれたので、びっくりして怖くなって……っ」


 我ながら、なんと情けないことで龍翔を困らせているのだろう。そう思うと泣きたくなる。


「お、お許しくださいませ……っ。変な夢を見て龍翔様を起こしてしまったばかりか、気を遣わせてしまいまして……っ」


 半泣きになりながら詫び、龍翔の口元から手を離そうとすると、不意に手首を掴まれた。


 同時に、離そうとした手のひらに、龍翔がちゅっとくちづける。


「では……。お前に嫌がられていないか、確かめてもよいか?」


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