77 これは『おしおき』が必要なのも道理だな その4


 背中や腰に回された手のひらが、身体の奥にかすかなさざなみを巻き起こす。大きな手が布地越しに背中をすべるだけで、変な声が洩れそうになって恥ずかしい。


 苦しくはないが、このままでは心臓が爆発するのではないかと思う。せめて、もう少し腕を緩めてもらえないかと、じたばたともがくと、


「そんなに暴れては、夜着の裾が乱れてしまうぞ?」

 と、からかい混じりに注意された。


「っ!」


 息を飲んでぴたりと足を閉じる。龍翔の言う通り、何度も暴れてしまったせいで、夜着の裾がかなり乱れている。


 むき出しになった膝やすねにふれるのは、自分の綿の布地ではなく、なめらかな絹と――。


 龍翔の素足だと気づいた瞬間、身体が凍りつく。


 深窓の令嬢でも何でもない明珠は、掃除の時に腕まくりだってするし、裾を汚さないように脛までたくし上げることだってしょっちゅうだ。蚕家にいた頃から、龍翔に何度も見られたことがある。なのに。


 なぜか今は、ひどく恥ずかしくて泣きたいような気持になる。


「あの……っ」

「安理からも、しっかり『おしおき』してくれと頼まれておるからな」


 お放しください、と頼もうとした明珠の言葉を封じるように龍翔が告げる。


「お前はあまりに無防備すぎるゆえ、少しは警戒心を持たねば、危険な目に遭うこともあるのだと、しっかり教えてやってくれ、と……」


 龍翔が苦みを帯びた吐息をこぼす。


「お前の純真無垢な性格は得難い美点だが、世の中の者、皆が善人というわけではない。優しい笑顔と甘い言葉で近づき、こちらが警戒を解いたところで牙をく輩もおる。お前が下劣な輩の毒牙にかかったりせぬか……。それが、心配だ」


 不安を追い払うかのように、龍翔が抱きしめた腕に力を込める。


「だが……。お前に教えるためとはいえ、手荒な真似をしてすまなかった」


 よしよし、といたわるように髪を撫でられ、明珠はろくに動かせない頭をふるふると横に振る。


「いえっ、すごくびっくりしましたけれど……。ちゃんと理由をお教えいただいたので大丈夫です。でも……」


「うん?」


 少し腕が緩み、明珠はほっとして龍翔を見上げる。


 まつげがふれそうなほどすぐそばに明珠を見下ろす秀麗な面輪があって、ただでさえうるさい心臓がひときわ大きな音を立てた。


「あ、あの……っ。今のこれも、『おしおき』なんですか……?」


 龍翔の頼もしい腕の中は、あたたかくて安心するような、けれども恥ずかしくていますぐ逃げ出したいような、自分でもよくわからない相反する気持ちに囚われる。


「さっきも心臓が壊れるかと思いましたけれど、今のこれも心臓が壊れてしまいそうです……。お放しくださいませんか……?」


 真っ赤になっているだろう顔で、じっと見上げて懇願すると、龍翔が苦笑した。


「むしろこれは、わたしへのおしおきというか、試練というか……」


「試練?」


 低い呟きの意味が掴めず小首をかしげると、笑みを深めた龍翔の面輪が不意に近づいてきた。

 あわてて守り袋を握りしめ、目を閉じた瞬間、唇に柔らかなものがふれる。


 『おしおき』の時とは打って変わった、いつもと同じ優しいくちづけ。


「お前の心臓が壊れてしまっては大変だからな」


 唇を離した龍翔が、仕方なさそうに苦笑して腕をほどいてくれる。


「で、では、失礼します……っ」


 龍翔の気が変わらぬうちにと、そそくさと寝台から下りようとすると、不意に、ほどいたままの髪をひと房、龍翔に掴まれた。


「あ、あの……っ!?」


 驚いて振り返ると、片肘かたひじをついて横向きに身を起こした龍翔が、難しい面持ちで明珠を見つめていた。


「今後は大丈夫だと思うが……。お前は人がよくて優しいからな。気をつけていても、玲泉の甘言にほだされてしまうやもしれん」


「う……っ」

 明珠は思わず言葉に詰まる。


 玲泉の危険さは、龍翔に重々教えられた。今後は今日のようなことは決してないと言いたいが……。「絶対にありません!」と言い切れるだけの自信はない。


 明珠の表情を読んだ龍翔が、仕方なさそうに吐息する。


「ならば、万が一に備えておこう」

「え?」


 わけがわからず、呆けた声を上げた明珠に、龍翔が悪戯っぽい笑みをこぼす。


 まるで、悪いことを思いついた子どものような笑みに、嫌な予感を覚えるより早く。


「もし、次また玲泉に惑わされそうになった時は、もう一度『おしおき』をするからな? 心しておけ」


「ええっ!?」


 すっとんきょうな声を上げた明珠にかまわず、龍翔がひと房、手に取っていた髪にちゅっとくちづける。


「っ!?」


 反射的に、息を飲んでぴしりと固まる。


 くちづけられたのは髪なのに……。

 先ほどの柔らかく熱い龍翔のくちびるの感触が無意識に甦ってしまい、かぁっと頬が熱くなる。


「お、おしおきって……っ」


 もう一度、あんな激しいくちづけをされたら、今度こそ心臓が壊れてしまう。


 あうあうと声にならぬ呻きをこぼしていると、楽しげに明珠を見つめていた龍翔が苦笑した。


「これだけ言っておけば、お前も気をつけるだろう?」


「はいっ! もちろんです! ほんとにほんとに気をつけますっ! もう絶対に龍翔様のいらっしゃらないところで玲泉様に会ったりしません! そもそも、もうお詫び申し上げましたから、玲泉にお会いする用事もありませんし……っ」


「そうか。玲泉など用無しか」


 妙に嬉しげに告げた龍翔が、ようやく髪を放してくれる。


「今の言葉、玲泉にも聞かせてやりたいものだな」


「いえっ、ほんとにもう、玲泉様には近寄りませんからっ!」

 決然と告げ、


「では、おやすみなさいませ! 失礼します!」


 と、明珠はなかば駆け込むように衝立の向こうの自分の寝台へと逃げ帰った。


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