77 これは『おしおき』が必要なのも道理だな その3


「あ、あの……っ」


 困り果て、半泣きになって龍翔を見上げる。


 夏になり暑くなってきたので、夜着の下は腰布だけだ。今まで、龍翔には何度も夜着を見せたことがあるはずなのに、たった布一枚しかへだてるものがないことに、初めて強い不安を覚える。


「術を使えるとはいえ、お前はか弱い乙女の身なのだから……。男には力ではかなわぬ。ましてや玲泉は術師としての腕もお前より上だ。彼奴あやつと二人きりになってみろ。狼の前の子うさぎのように喰われてしまうぞ?」


 明珠を見下ろし、硬い表情で淡々と告げた龍翔の瞳に、不意に苛烈な炎が揺らめく。


「もっとも、そんなことをすれば、わたしがこの手で膾切なますぎりにして地獄に叩き落してやるがな」


「っ!」


 氷雪よりもなお冷たい声に、心臓を氷の手で掴まれたかのように、一気に体温が下がる。


 どうあがいても、明珠では敵わぬのだということを刻み込むように、帯と手を握り込んだ指先にきゅっ、と力を込められ、明珠はびくりと震えた。


 その途端、龍翔のまなざしが哀しげに揺れる。だが、握りしめられた手は、まだ放れない。


「……己がどれほどの危険に陥りかけていたか、少しは理解したか?」


「は、はいっ」


 低い声で紡がれた問いに、こくこくこくっ、と何度も頷く。


「わ、わかりました! 今後は玲泉様と二人きりにならないように、重々気をつけます……っ! 龍翔様がいらっしゃらないところでお会いしたりもしませんっ!」


「頼むから、今の言葉を忘れるでないぞ」


 ようやく、ほっ、と表情を緩めた龍翔が、ゆっくりと帯を掴んでいた手をほどく。


 明珠も大きく息をつくと、身体を庇うように両手で胸元の守り袋を握りしめた。

 心臓はまだばくばくと騒いでいる。今すぐ、ここから逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。


 と、困ったように眉を下げた龍翔が、優しく明珠の髪を撫でた。いつもより遠慮がちな優しい指先。


「すまぬ。怖がらせてしまったな? お前を怯えさせたくはなかったのだが……。こうでもせねば、お前はいつまでも玲泉の恐ろしさを理解してくれぬようだったのでな……」


「そ、そんな……っ! 謝らないでくださいっ!」


 ぶんぶんぶんっ、と大慌てでかぶりを振る。


「謝らなくてはいけないのは私のほうです! 龍翔様に厳しく言われていましたのに、ちゃんと理解しておらず……。申し訳ありませんでしたっ!」


「本当に……。安理から報告を受けた時、どれほどきもが冷えたか。もし、お前が玲泉に酷い目に遭わされていたらと思うと……」


 髪を撫でていた龍翔の手が、不意にぎゅっと握り込まれる。


 その寸前、指先が確かに震えていたのがわかって……。


 自分の迂闊うかつさがどれほど龍翔に心配をかけたのか痛切に思い知らされ、申し訳なさで泣きたくなる。


「本当に、すみませんでした……っ」


 涙を見せてしまったら、龍翔はいっそう気に病むだろう。涙をこぼすまいと固く目をつむって詫びると、拳をほどいた手のひらに、そっと頬を包まれた。くすぐったいような感覚に、無意識にふるりと肩が揺れる。


「……わたしのことが、恐ろしくなったか?」


 苦く頼りない声に、弾かれたように目を見開くと、切なげなまなざしにぶつかった。


 いつも泰然として余裕を失わない龍翔と同一人物とは思えない、不安に満ちた切なげな面輪。


「ち、違います!」

 こちらの胸まで痛くなるような表情に、明珠は大慌てで激しくかぶりを振る。


「龍翔様を恐ろしいだなんて、そんなこと思っていませんっ! だって……っ!」


 頬を包む龍翔の手の甲にそっとふれると、おののくように指先が震えた。だが、頬にふれた手のひらは離れない。


 不安をすべて融かしてしまうようなあたたかさに、安堵の切なさがないまぜになったような気持ちを味わいながら、明珠は龍翔の不安を打ち払おうと、懸命に言葉を紡ぐ。


「龍翔様の先ほどの行いは、私に教えるためでしょう? 私がいつまで経っても、玲泉様の危険さを理解しないから……。ご迷惑をかけているのは私のほうですのに、教えてくださった龍翔様を怖く思うなど、ありえませんっ!」


 必死に言い募ると、ようやく龍翔の表情が緩んだ。


「では……。お前に嫌われてはおらぬか?」


 まだどこか不安げに紡がれた問いに、こくこくこくっ、と大きく頷く。


「もちろんです! 龍翔様を嫌いに思うなんて……っ。そんなこと、天地がひっくり返ってもありえませんっ!」


 きっぱりと告げると、「そうか」と龍翔が破顔した。

 とろけるような甘やかな笑みに、心臓がぱくりと跳ねる。


「お前に嫌われていないのなら、これほど嬉しいことはない」


 龍翔がようやく馬乗りになっていた明珠の上からどいてくれる。


 ほっとしたのも束の間、明珠の隣に寝転んだ龍翔にぎゅっと抱き寄せられる。


「り、龍翔様っ!?」

 てっきり開放してもらえるものと思い込んでいた明珠は大いに慌てた。


「あ、あのっ、お放しくださいませっ!」


「なぜだ?」


「えっ? えぇぇっ!?」

 不思議そうに問われ、さらなる恐慌に陥る。


 密着しているせいで、夜着の薄い布越しに龍翔の引き締まった身体が感じられて、激しい動悸が治まらない。


 風呂上がりの龍翔はあたたかくて、伝わってくる体温に、あぶられたろうのように融けてしまいそうな心地がする。


「あ、あの……っ!?」


 いったい、これはどういうことなのだろうか。

 戸惑っていると、笑んだ声が降ってきた。


「慣れておく必要があるだろう?」


「慣れ……? あのっ、何にですか!?」


 こんな状況で、何に慣れるというのか。

 明珠の反応がおかしかったのか、龍翔がくすくすと喉を鳴らす。


「わたしのすぐそばにおれば、玲泉も寄りつかぬ。玲泉けのためにも、わたしのそばにいることに慣れておく必要があるだろう?」


「お、おそばと言っても、これは近すぎると思うんですけれどっ!」


 即座に言い返すと、ふはっ、と龍翔が吹き出した。

 呼吸に動いた胸板と前髪にかかった吐息に、心臓が跳ねる。


「この近さに慣れておけば、多少のことは大丈夫だろう?」


 言いながら、龍翔が腕にさらに力を込めてくる。


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