76 お互いに謝罪して、手打ちにするのはどうだろう? その2


 迷う明珠の背中を押すように、玲泉の苦笑交じりの声が聞こえてくる。


「そもそも、張宇殿が目を光らせているというのに、よからぬことなどできるはずがないだろう?」


「いえ、そうおっしゃられましても……」


 張宇はかたくなに龍翔の命を守ろうとしているが、声には困惑の色が隠せない。身分が高い玲泉の対応に困っているのは明らかだ。


 自分のせいで張宇まで困らせているのかと思うと、申し訳なくていたたまれなくなる。


「あの……っ」


 明珠は意を決して扉の向こうの玲泉に呼びかけた。


「その、先日、私が玲泉様に働いてしまったご無礼をお詫び申しあげたら、お許しいただけるのでしょうか……?」


「もちろんだよ、明順」

 玲泉が即答する。


「先ほど告げた言葉に偽りはない。お互いに謝って、それで憂うのは終わりにしよう」


「め、明順!? せめて、龍翔様が戻られるまで待ってから……」

 張宇が戸惑った声で割って入る。


「でも、せっかく玲泉様がお許しくださるとおっしゃってくださるなら、この機会を逃したくないんです……」


 答えながら、明珠は扉に歩み寄る。

 龍翔から、「わたしが戻るまで決して開けるのではないぞ」と命じられているかんぬきを、ためらいを振り切るように外し、薄く扉を引くと、前に立つ張宇の背中が見えた。その肩越しに、嬉し気に微笑む玲泉の姿も。


「あの、玲泉様! 先日は無礼なことを申し上げて、大変申し訳ございませんでした!」


 玲泉が口を開くより早く、深々と頭を下げて謝罪する。


「うん、謝罪を受け入れよう。こちらも、不慮のこととはいえ、怖い思いをさせて悪かったね。許してくれるかい?」


「もちろんです!」


 顔を上げ、こくこくこくっ、と何度も頷く。

 許すも何も、もともと怒ってなどいなかったのだから、否はない。


「では、お互いにこれで水に流すということでよいね?」

 にこやかに微笑んだ玲泉が、片手を差し出す。


「は、はいっ。ありがとうございます」


 仲直りの握手だろうか。ほっとしながら手を差し出すと、握り返した玲泉が嬉しそうに目尻を下げた。


「ああ、明順。やっぱりきみは特別だね。ふれても何ともないなんて。――どんな手を使っても、きみが欲しいな」


 低い呟きをこぼした玲泉が、やにわに明珠の手を持ち上げると、ちゅ、と甲にくちづける。


「ひゃっ!?」


「玲泉様! ですから……っ!」

 すぐさま割って入った張宇が、目を怒らせて抗議しようとする。


 その眼前に、すっ、と玲泉が片手をかざし。


「《眠――》」

「は~い♪ そこまでっスよ~♪」


 不意に響いた安理の声に、全員が驚いて動きを止めた。


 いつの間に現れたのか、玲泉の後ろをとった安理が、さやに入ったままの短刀を玲泉の喉元に突きつけている。


「安理っ!?」

「安理さんっ!?」


 驚いた声を上げる張宇と明珠を無視し、安理がにこにこと玲泉に話しかける。


「玲泉サマ~? オレ、ちゃーんと前に忠告したっスよね~? 明順チャンを泣かせるような真似をしたら、さすがの玲泉サマでも許さないっスよ、って♪」


 なぜだろう。へらりと軽やかな笑顔なのに、安理から放たれる圧がただごとではない。

 玲泉の喉元にぴたりと突きつけられた短刀は、抜身でもないのに、不用意に動けば即座に首をかき斬りそうだ。


「嫌だな、わたしは明順を泣かせる気なんて――」


「あー、はいはい。今はそーゆー詭弁きべんはいいっスから」


 さすがに平静ではいられないのだろう。身動みじろぎもせず、正面を向いたままかすれた声を上げた玲泉の言葉を、安理が冷ややかに遮る。玲泉が諦めたように吐息した。


「……まさか、伏兵がいたとはね。まったく気づかなかったんだが、いったい、どこにいたんだい?」


「え? 玲泉サマが来られる前から、廊下の端に潜んでたっスよ~? なぁんか今日は危険が感じがシたんで、龍翔サマに《幻視蟲》をかけてもらったうえでっスけど♪ いや~っ、気配を探られたらヤバイな~と思ってたんスけど、玲泉サマも浮かれて警戒が甘くなってたんで、助かったっス~♪」


 あっさりと安理がバラす。明珠も安理が廊下にいるなんて、まったく気づかなかった。


「……なるほどね。今後は気をつけることにしよう」


「安理……。潜むなら、ちゃんと俺にも伝えておいてくれ……。いったい、何だろうかとずっと気になっていたんだぞ……」


 張宇は安理の気配に気づいていたものの、何も知らされていなかったので、戸惑っていたらしい。苦い顔で呟いた超宇に、安理は悪びれた様子もなく、にへらと笑う。


「えーっ、だって張宇サンって演技が下手じゃないっスか~。何のためにオレがいるか知ってたら、絶対、不自然になってたデショ?」


「それはそうだが……」


「……ずいぶんと、警戒されていたようだね」

 玲泉がはぁっ、と吐息する。


「当たり前っスよ」

 安理が大きく頷いた。


「だって玲泉サマ、昼間、明順チャンに剣をぶつけかけたの、アレ、わざとでしょ?」


「ええぇっ!?」

 明珠はすっとんきょうな声を上げる。玲泉が形良い眉をひそめた。


「あれは不幸な事故だよ。そこまで疑われたら、哀しくなってしまうな」


 玲泉が切なげに長いまつげを伏せる。哀愁漂う風情に、明珠は思わずとりなしそうになる。が。


「まったまた~♪」

 と安理は一顧だにしない。


「まっ、アレがわざだったかそうじゃなかったかなんて、どっちでもいーんスよ。大事なのは、それを利用して、玲泉サマがナニをしようとしてたかなんで♪」


「……何をしようとしていたんですか?」


 きょとんと問うと、明珠以外の三人が、驚いたように目を見開いた。


「いやあの、それは、その……」

 張宇が顔を赤くして視線を泳がせ、安理が、


「あー、も――っ! ちゃんと説明しといてくださいって頼んだじゃないっスか! 龍翔サマ~っ!」


 と、玲泉の喉元からようやく短刀を外して頭を抱え、自由を取り戻した玲泉が甘く微笑む。


「何って……。愛らしいきみを愛でようとしていただけなんだけどね? きみが知りたいのなら今からでも……」


「あ、愛……っ!? ひゃっ!」


 玲泉の言葉に戸惑った声を上げた瞬間、ずっと握られていた手をそっと撫でられ、すっとんきょうな声が飛び出す。


「玲泉様!」

 目を怒らせた張宇が玲泉の手を掴み、強引に引きはがす。


「あのっ、ご冗談はおやめください!」


「冗談などではないよ。わたしは本気で――」


「つまり、本気で龍翔サマに首を斬られたいってワケっスね? 嬉々として斬ってくださると思うっスよ? それとも――」


 玲泉の言葉を遮った安理が、凄みのある笑みを浮かべる。


「その前に、オレが斬ってさしあげましょーか? 首でも、アソコでも♪」


「……それは謹んで遠慮するよ」

 若干、引きつった顔で応じた玲泉が、ふう、と大きく吐息する。


「残念ながら、龍翔殿下のほうが、一枚上手だったようだね。今日はこの辺りで退散しよう」


「「今日は」じゃなくて、今後ともちょっかいをかけないでほしいんスけど?」


 すかさず突っ込んだ安理に、玲泉は笑みを深くしただけで答えない。


「ではね、明順。沐浴の邪魔をして悪かったね。もし何か困りごとがあったら、何でもわたしに頼っておいで。きみの願いごとだったら、何であろうと叶えてあげるから」


「い、いえっ、大丈夫です! お心遣いだけちょうだいします!」


 甘やかに微笑んで告げた玲泉に、ぶんぶんと首を横に振る。


「そうっスよ、玲泉サマ。明順チャンが真っ先に頼るのは龍翔サマなんスから♪ 玲泉サマが出る幕はないっスよ♪」


「あ、いえっ。龍翔様にもご迷惑をかける気なんて、そんな……っ」


 あわててもう一度かぶりを振ると、玲泉が吹き出し、安理が口をひん曲げた。


「ちょっ、明順チャン! そこは「そうなんです! 龍翔様はとってもお優しくて頼りになって……。すっごく甘やかしてくださるんですから!」ってオレに同意するところデショ~?」


「ええぇっ!? そ、そりゃあ龍翔様はとってもお優しいですし、頼もしいことこの上ありませんけれど、私なんかのことで、ご迷惑をおかけするわけには……っ」


 安理の言葉にあわあわと返すと、玲泉がくすりと笑みをこぼした。


「そんな謙虚なところも、きみの魅力の一つだね。甘やかして、笑顔を引き出したくなるな」


「ふぇっ!?」

 とろけるような笑みを向けられ、ぱくりと心臓が跳ねる。


「いえいえいえっ! ほんとにほんとにけっこうですから!」


 守り袋から手を放し、両手をぶんぶんと振ると、安理が目をすがめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る