76 お互いに謝罪して、手打ちにするのはどうだろう? その1


「玲泉様。恐れ入りますが、そこより先は、現在、立ち入り禁止とさせていただいております」


 扉の向こうの廊下から聞こえた張宇の険しい声に、いつものようにたらいで湯浴みをしようと、まさにさらしをほどいたばかりの明珠は、はたと動きを止めた。


 今、船室の中には明珠しかいない。龍翔は湯殿へ行っているので、その間に明珠も、張宇が湯をはって持ってきてくれたたらいで湯浴みをするところだったのだ。

 明珠が湯浴みをする時はいつも、張宇が扉のすぐ近くで見張りをしてくれることになっている。


 今日は、午後に模擬戦で汗をかいたため、いつもより早い時間に各人の部屋で夕食をとり、湯浴みすることとなったので、窓の外はまだ明るい。


 珍しく厳しい張宇の声に、何かあったのだろうかと明珠は不安に思う。

 明珠が湯浴みをしている時に、誰かが船室を訪れることなど、今まで一度もなかった。主である龍翔が不在なのだから、当然と言えば当然なのだが。


 船室を移動したので、単に玲泉は前の廊下を通ってどこかに移動したいだけかもしれない。


「玲泉様! ですから……っ!」


 咎めるような張宇の声がふたたび聞こえる。


 部屋の中で湯浴みをしていても、前の廊下を通るくらいならまったく構わないのに、と思っていると。


「張宇殿がそこにいるということは、明順は中にいるのかな?」


 扉の向こうから玲泉のつややかな声が聞こえてきて驚く。まさか、明珠に用があるのだろうか。


「おります。……が、龍翔様より、龍翔様のいないところでは、決して明順を玲泉様に会わせてはならぬと厳命されております」


 張宇が固い声で応じる。


 明珠自身も、同じことを龍翔に言い含められている。「何があろうと、決して明珠一人で玲泉に会ってはならん」と。


 そもそも、これから湯浴みをしようとしていた明珠は、間違っても人前に出られる格好ではない。


 扉の向こうから、玲泉がくすりと笑う声がした。


「まったく、厳重なことだね。龍翔殿下は、よほどわたしを明順に近づけたくないと見える。が……。昼間、わたしのせいで怖い思いをさせてしまった詫びくらい、させてくれてもよいだろう?」


「そういうことでしたら、なおさら龍翔様がいらっしゃる時にいらしてください。わたしの一存では明順にお引き合わせすることはできません」


 張宇がいわおのように厳然と拒絶する。


「だが、龍翔殿下がいらっしゃる時に来ては、はなからけんもほろろに追い返されてしまうじゃないか。だからこそ、殿下がご不在の時を狙って詫びに来たというのに。明順、いるのだろう?」


「は、はいっ」

 扉の向こうから呼びかけられ、反射的に答えてしまう。


「どうだろう? 昼間のことを詫びさせてもらえないかな?」


「い、いえっ! あれは偶然の事故ですから、玲泉様に詫びていただくなんてそんな……っ! どうか、お気になさらないでください!」


 とりあえず、大慌てて着物を着直しながら、あわあわと扉の向こうへ返す。

 一瞬、ほどいてしまったさらしはどうしようかと悩んだが、もう一度巻き直していては時間がかかりすぎると思い、諦める。


 明珠の返事に、玲泉は納得いかぬようだった。


「優しいきみがそう言ってくれたとしても、わたし自身の心が晴れなくてね。龍翔殿下が連れて行ってしまったきり、今日はまったく顔を見られていないし……。明順の無事な姿を見るだけで安心するんだが……。だめかな?」


 困り果てた声でそう言われては、心が揺れてしまう。

 代わって玲泉をたしなめたのは張宇だった。


「玲泉様! ですから、龍翔様がいらっしゃらぬところで明順に会わせるわけにはまいりませんと……っ! それに、その……」


「……なるほど。龍翔殿下が湯浴みに行かれて、明順が部屋に残っているということは、明順も沐浴中というわけかな?」


 ぴたりと言い当てられ、動揺した拍子に、結びかけていた帯が手からすべった。湯の中に落ちそうになった帯をとっさに拾おうとして、足をがんっ、とたらいにぶつける。


「いたっ」


「明順っ!?」

「どうしたんだい?」


 張宇の慌てた声と玲泉の問う声が聞こえる。


「い、いえ。ちょっとたらいに足をぶつけてしまって……。だ、大丈夫です! お湯はこぼしていませんから!」


 水面が大きく揺れたが、幸い、床にまでこぼれなくてほっとする。もし船室の床を水浸しにしたりしたら、申し訳なさすぎる。


「うん? まだ沐浴はしていなかったのかな?」


「はい、ちょうど入ろうとしていたところなので……」

 今度こそ、しっかりと帯を結びながら答えると、


「なら……。少し顔を見せてもらえはしないだろうか? ほんの少しでかまわないんだよ。きみの愛らしい顔を見て安心したいんだ」


 と扉の向こうから懇願された。


「あ、愛っ!? い、いえっ、その……っ」


 ぶんぶんぶんっ、と首を横に振ってから、これでは何も伝わらないと気づく。


「えっと、その……。本当に、今日のことは玲泉様が謝罪される必要のないことですので、どうぞお気になさらないでくださいませ。むしろ、私のほうが玲泉様にお詫び申しあげないといけませんから……っ」


「うん? 何かあったかな?」


 玲泉がゆったりとした声を上げる。優雅に首を傾げている姿まで見えるようだ。


「そ、その、二日前、玲泉様のお言葉に食ってかかってしまいまして……。誠に申し訳ございませんでしたっ!」


 見えていないと知りつつ、身体を折り畳むようにして深く頭を下げる。


「そういえば、そんなこともあったね。ということなら……。お互いに顔を合わせて謝罪して、それで手打ちにするというのはどうだろう?」


 玲泉が優しい声で提案する。


「そうすれば、私も心が晴れるし、明順の憂いも取り除けるだろう? どうかな?」


「ですからっ、龍翔殿下のいらっしゃらないところで明順に会わせるわけにまいりませんと――」


「わたしは明順に尋ねているんだよ、張宇殿」


 玲泉の声がわずかに低くなる。


「明順が詫びたいと願っていても、龍翔殿下はお許しにならないだろう。明順の心の重石おもしを取ってやることを考えれば、今ほどよい機会はないと思うけれどね? 何より、明順がそれを望んでいるんだよ? だろう、明順」


「は、はい……っ」


 優しい声で話しかけられ、明珠は引き込まれるように頷く。


 明珠が不用意に玲泉に抗弁してしまったせいで、尊敬する龍翔に迷惑をかけてしまったことは、心の柔らかな部分に刺さったとげのように、明珠をさいなんでいる。


 龍翔は謝ることを禁じていたが、どう考えてもこのまま放っておいていいはずがない。


 今ここで明珠が謝ることで手打ちにしてもらえるのなら、それが一番いいのではないだろうか。

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