75 手合わせだけじゃすみません!? その4
「なっ、何をなさるんですかっ!? こ、こんな荒れた手ですのに……っ!」
龍翔に仕えるようになってから、炊事や洗濯といった水仕事をすることが少なくなったため、実家にいた頃よりはかなりましになっているものの、明珠の手はしがない庶民の手以外の何物でもない。
愛らしい手というならば、白魚のように美しい初華の手や、小さくてふくふくとした藍圭の手を言うべきだろう。
「わたしにとっては、お前の手こそ愛らしいが……。荒れているのか気になるのならば、初華から香油を分けてもらうか」
「そ、そんな
賊に襲われた夜、明珠が少しでも心安らげるようにと、安理が初華の侍女から分けてもらってきてくれた香油は、結局、一度使わせてもらっただけで、残りは返してしまった。
明珠には分不相応な贅沢品だし、何より、人前では少年従者ということになっている明珠が、花の薫りのする香油なんてつけていては不自然だろう。そもそも、いつつければいいのかわからなくて、もったいないと死蔵するのが落ちだ。
「なんだ。返してしまったのか。せっかくお前に似合う薫りだと思っていたのに……。ああ、だが」
止めるより早く、もう一度手のひらにくちづけた龍翔が、甘く笑う。
「香油などつけずとも、お前は十分に甘く、かぐわしいからな」
「ひゃっ!? あの……っ」
龍翔と吐息が手のひらをくすぐって、変な声が出てしまう。必死で龍翔の手から右手を引き抜こうとすると苦笑された。
「先ほどの、自分の身を守るという件だが」
「は、はい」
「お前を危険な目に遭わせるつもりは毛頭ないが、自衛の手段があるに越したことはない。しかし、剣など使わずとも、お前には《蟲招術》があるだろう? 戦いに《蟲招術》を使えるようになれば、並みの賊など敵ではない」
「なるほど! さすが龍翔様ですね!」
龍翔の言う通りだ。今から剣の鍛錬を積んだとしても、とてもではないが、龍翔や張宇の足元にも及ぶまい。ならば、龍翔の言う通り、《蟲招術》の腕を磨くほうが、よほど現実的だ。
「で、でも、具体的にはどのようにすればよいんでしょうか……?」
思わず情けない声が出てしまう。
「そうだな……。身を守るということなら、緊急時に即座に《盾蟲》を
「なるほど……!」
先ほど、龍翔が明珠が助けてくれたように、《盾蟲》を喚べれば、賊の剣を防ぐことが可能だろう。
明珠はこれまで賊に遭遇した時のことを思い出す。
蚕家に奉公している時に、男装して季白と一緒に村へ出かけた帰り道、《堅盾族》の村への往路、そして先日の周康とともに賊に襲われた時……。
そのすべてで、明珠は役立たずこの上なかった。
乾晶では、足手まといだからと、龍翔に《眠蟲》で眠らされたほどだ。
「無理をすることはない」
龍翔にそっと背中を撫でられ、明珠は初めて自分が震えていたことに気づく。
「頼むから、自分で何とかせねばならぬなどと思いつめてくれるな。何があろうと、お前はわたしが守る。心構えとして覚えておくだけで十分だ」
優しくやさしく、明珠の強張りをほどくかのように、龍翔の大きな手が背中をすべる。
「
泥のように苦く低い龍翔の声に、明珠は懸命にかぶりを振る。
「龍翔様にお仕えしたことを悔やんだことなどありませんっ! ただ……。模擬戦を見ている時に考えてしまったんです。木剣でもあれほどの迫力なら、真剣ならどれほど恐ろしいだろうと……。《堅盾族》の村に行く途中で賊に襲われた時も、龍翔様はそんな危険を冒されたのかな、って……」
「あの時なら」
龍翔が安心させるように柔らかく微笑む。
「わたしが出るまでもなかったぞ? 統率も取れていなかった烏合の衆だった上に、張宇達もいたからな。わたしがしたことと言えば、傷を負った兵士を《癒蟲》で治したくらいだ」
「そうなんですね、よかった……。あの時、龍翔様は賊のことをほとんど教えてくださらなかったので……」
龍翔の言葉にほっとして気が緩んだ拍子に、あの時は告げられずに秘めていた思いが、ぽろりと口からこぼれ出た。
「仕方がないとはいえ、眠らされるくらい足手まといなんだと思うと、申し訳なくて、切なくて……」
うつむきがちにそこまで言ったところで、とんでもない不敬を働いたと気づき、慌てる。
「も、申し訳ありませんっ! こ、これはその、龍翔様を責める気なんてまったくなくて……っ、わぷっ!」
不意に、思いきり抱き締められ声が飛び出す。
「あの時……。《堅盾族》の村に着いた時、様子がおかしかったのは、そんなことを考えていたからなのか?」
隠していたことをぴたりと言い当てられ、うろたえる。
「そ、その……っ」
「わたしはてっきり、お前が賊に怯えていたのだと……」
明珠を抱きしめる腕にますます力がこもる。
「どこまでけなげで愛らしいのだ、お前は」
低い呟きは、龍翔の腕に阻まれてよく聞こえない。それより、衣に焚き染められた香の薫りと、汗の淡い臭いにくらくらして倒れそうだ。心臓がばくばくして壊れるのではないかと思う。
「り、龍翔様! あの……っ。そ、そうだっ、喉が渇いてらっしゃいますよね!? 陽射しの中、あれほど動いてらっしゃいましたし……っ。私、お水を持ってまいります! ですからお放しくださいっ」
なんとか放してもらおうと必死で言い募ると、仕方がなさそうに龍翔が腕を緩めてくれた。
「えっと……。水差しのお水でよいですか? それとも甲板に戻って、冷たい果実水を……」
「いや、そこの水差しでよい。ひとまず、喉を潤したい」
「はいっ」
明珠は卓の上の水差しから杯に水をつぎ、龍翔に差し出す。
「すみません……。《氷雪蟲》で上手に冷やせたらいいんですけれど……」
前に龍翔に《氷雪蟲》の喚び出し方を教えてもらったものの、あれっきり練習していないので、うまく扱える自信がない。
凍らせずにほどよく冷やせるようになるには、まだまだ鍛錬が必要だろう。
「私……。もっと術を巧く使えるように頑張ります!」
《蟲招術》への苦手意識はまだ大いにあるが、せっかく使えるものがあるのだ。下手くそだろうと、使ったほうがいいに決まっている。術師としての腕を伸ばせば、もう少しくらい、龍翔の役に立てるかもしれない。
気合を込めて宣言すると、「そうか」と水を飲み干した龍翔が悪戯っぽく微笑んだ。
「ならば、また一緒に蟲を喚び出す練習をするか?」
「え……っ?」
龍翔の甘やかな笑みに、《氷雪蟲》の喚び出し方を教えてもらった時のことを思い出し、心臓がばくんと跳ねる。
「あのっ、その……っ。まずは自分で喚び出す練習をしてみます! どうしてもうまくいかなかったら、龍翔様を頼らせていただきますので……っ!」
龍翔の厚意はありがたいが、《氷雪蟲》を巧く操れるようになるより先に、心臓が壊れてしまいそうな気がする。
明珠は慌ててかぶりを振って辞退した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます