75 手合わせだけじゃすみません!? その3


「どうしたっ!? 怪我か!?」

 血相を変えて問うた龍翔が、軽々と明珠を横抱きにする。


「だ、大丈夫ですっ。ただ、びっくりしてしまって……っ」


 まだ身体に力が入らない。ふるふるとかぶりを振りながらなんとか告げると、龍翔が大きく安堵の息を吐き出した。


「すまなかった……っ。わたしがもっと気をつけていれば……っ」


 苦い声で謝罪した龍翔が、明珠の無事を確かめるかのように、ぎゅっと抱き寄せる。いつもの香に、かすかに汗の匂いが混じった薫りと、何事もなかったことを心から喜んでいる力強い両腕。


 頼もしさにほっとすると同時に、人前だということを思い出して、大いに慌てる。


「あ、あのっ、大丈夫ですから降ろし――」


「本当に申し訳なかったね、明順。怪我はしていないかい? 怖い思いをさせてすまなかった」


 明珠が言い終わるより早く、龍翔に続いて駆け寄ってきた玲泉が頭を下げる。


「れ、玲泉様っ!? お顔を上げてくださいっ!」


 身分が高い玲泉に謝罪させるなんて、木剣が飛んでくるのと同じくらい心臓に悪すぎる。


 思わず身を乗り出し、玲泉に手を差し伸べようとすると、ぎゅっと龍翔に抱き寄せられた。

 明珠に伸ばされた玲泉の指先が空をかく。


「戦いのさなかに剣を手放すなど……っ! 何を考えている!? 危うく明順が大怪我をするところだったのだぞ!?」


 玲泉の視線から明珠を隠すように半身になった龍翔が厳しい声で糾弾する。玲泉がさらに深くこうべを垂れた。


「誠に申し訳ございません。弁解のしようもありませぬ。明順に大怪我を負わせてしまっていたかも知れぬと思うと……。恐ろしさに気も狂わんばかりでございます。龍翔殿下が庇ってくださって、本当にようございました」


 悄然しょうぜんとうなだれる玲泉の美声は、いつものつややかさが嘘のようにひびわれ、震えている。


 聞いているほうの胸まで痛くなるような声に、明珠は思わず口を開いていた。


「玲泉様! どうかご自分を責めないでくださいませ! 模擬戦とはいえ、戦いは戦い。思いがけぬことが起こるのは当然でございましょう? それに、龍翔様の《盾蟲》や張宇さんが庇ってくれましたから、怪我もありませんでしたし……。こ、これは少しびっくりしてしまっただけで!」


 大丈夫だというところを示そうと、龍翔の腕から降りようとするが、じたばたと暴れても、龍翔の腕は緩まない。


「あのっ、龍――」

「今回は、明順がこう申しているゆえ、不問に処すが」


 明珠を遮るように、龍翔が厳しい声を出す。怒気をはらんだ声は、思わず背筋が凍りつきそうなほど、険しい。


「今後、万が一にでも明珠を傷つけるようなことがあってみろ。その首を即座に斬り飛ばしてやるぞ?」


「……肝に銘じておきましょう」


 珍しく、玲泉が素直に応じる。


「その言葉、しかと聞いたぞ」

 念を押すように告げた龍翔が身を翻す。


「あの……っ」

 明珠の声を無視し、歩を進めた龍翔が、藍圭に軽く一礼する。


「藍圭陛下、申し訳ございません。わたしはこれで失礼させていただきます。《盾蟲》はんだままにしておきますゆえ、鍛錬を続けられるのでしたら、どうぞお使いください」


「は、はい。ありがとうございます……」


 いまだに状況が掴めぬと言いたげに藍圭がぎこちなく頷く。「では」と龍翔はかまわずすたすたと歩いていく。


 甲板から廊下へ入り、人目がなくなったところで、明珠は龍翔の腕の中で身動みじろぎした。


「あのっ、下ろしてださいっ! びっくりして腰が抜けただけで、私はほんとにどこも怪我しておりませんからっ!」


「それは承知している。だが……」

 明珠を抱く龍翔の腕に、力がこもる。


「お前が怪我を負うかもしれぬと思った瞬間、恐ろしさのあまり、身も心も凍るかと思ったのだ。本当にすまぬ」


 胸を突くような声に、明珠は何も言えなくなる。


 黙した明珠を横抱きにしたまま、龍翔が昨日移ったばかりの船室へと入り。


「で、でも……。先ほど申した通り、模擬戦だったのですから……。決して龍翔様のせいではございません。それに、玲泉様の手から剣を弾き飛ばしてしまうくらい、龍翔様がお強くていらっしゃるということなのでしょう? 私、思わず見惚れてしまいました!」


 強張ったままの面輪をなんとかしたくて、懸命に言い募ると、龍翔の表情がようやく緩んだ。


「そうか。見惚れてくれたのか」


 甘やかに微笑まれ、心臓がばくんと跳ねる。顔が一気に熱くなった。


「だ、だって、龍翔様も玲泉様も巧みに剣を扱われて……っ。まるで、お二人で剣舞を踊られているかのようで……っ」


 あわあわと口を開くと、なぜか龍翔が渋面になった。


「なんだ。玲泉もか」


「ええっ!? お二人で戦われていたわけですし……。あの、それよりも下ろしてくださいっ」


 もう一度懇願すると、龍翔が仕方なさそうに吐息して下ろしてくれた。


「あの……」

 おずおずと秀麗な面輪を見上げると、「どうした?」と甘く微笑まれた。


「やはり玲泉に罰を与えたいというのなら、今からでも戻って、彼奴あやつを華揺河へ叩き落してくるぞ?」


「なっ、なんてことをおっしゃるんですか! そんなこと、望んでおりませんっ!」


 過激極まりない冗談に、とんでもない! とかぶりを振る。


「あの、助けていただきまして、本当にありがとうございました。それと……」


 今回、甲板へ出たのは、藍圭が「自分の身は自分で守れるようになりたい」と浬角に稽古けいこをつけてもらうためだ。


 あんな幼い少年でさえ、自分を鍛えようとしているのだから。


「その……。私も、何かあった時に自分の身を守れるように、剣の鍛錬をしたほうがいいんで――、ひゃっ!?」


 言い終わるより先に、強い力で抱き寄せられる。


「もう二度と、お前に賊など近づけさせはせぬ」


 痛みをはらんだ硬い声に、明珠はなかなか動かせない頭を必死で横に振る。


「ち、違うんですっ! 龍翔様を責めるつもりなんてまったくないんですっ! ただ……。私も剣を使えるようになれば、龍翔様のお役に立てるのかな、と……」


「剣など使えずとも」

 安堵したように吐息した龍翔が、そっと明珠の髪を撫でる。


「お前はもう、十分にわたしの役に立ってくれている。それに」

 腕を緩めた龍翔が、明珠の右手を取った。


「この愛らしい手に、剣だこなど作るわけにはいかぬだろう?」


 言うなり、手のひらにちゅ、とくちづけられ、頭が沸騰した。

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