75 手合わせだけじゃすみません!? その1


 かあん、かあん、と訓練用の木剣がぶつかる音が、広い甲板に高く響く。


 明珠は、張宇と浬角が行う模擬戦を、初華や藍圭と一緒に、感嘆のまなざしで見つめていた。


 もともとは、初華に誘われて、甲板で浬角と剣術の練習をする藍圭の見学に龍翔達と来たのがきっかけだった。


 視界の通る甲板で、万が一何かあってはと、季白や張宇、安理も警護している上に、さらには龍翔がんだ《盾蟲じゅんちゅう》まで周りを飛んでいる厳重っぷりだが、


「少しでも、自分の身は自分で守れるようになりたいんです」


 と、子どもの用の特製の木剣を握りしめて告げる藍圭に、駄目だと言える者がいるはずもなく。


 浬角の指導を懸命に受ける藍圭を、明珠は初華と一緒に、応援し……。

 よく晴れた夏の陽射しと激しい動きに、藍圭が汗だくになり、少し休憩をはさむことになった際に、まだ全く息の上がっていない浬角が、張宇に申し出たのだ。


「張宇殿。その身のこなし、かなりの腕前とお見受けします。どうか、手合わせしてご指南いただけますか?」


 と。視線で可否を問うた張宇に、龍翔が、


「よいではないか。今後のこともある。お互いの腕前を承知しておいた方が、浬角殿も不安が軽減されよう。応じるがよい」


 と許可を出したため、訓練用の木剣で手合わせをすることになったのだが。


「すごい……っ!」

 二人が戦う様子を見た藍圭が、感嘆の呟きを洩らす。


「はいっ、おっしゃる通りですね!」


 明珠はこくこくと頷いて藍圭に同意した。明珠も藍圭も、視線は張宇と浬角に据えられたままだ。


 ごうっ、と大きな踏み込みとともに、風を切り裂いて振り下ろされた浬角の木剣を、張宇がわずかな身体の動きだけでかわす。


 伸びきった浬角の腕を狙って振るわれた張宇の刃を、浬角は素早く剣を引き戻して防いだ。


 かあん、と木剣同士がぶつかる音が高らかに響く。


 訓練用の木剣は、外側こそ堅い木でできているものの、真剣の重さに合わせるために、中には金属の芯が仕込まれているのだと、先ほど、隣に立つ龍翔に教えてもらったばかりだ。


 当たれば酷い打撲を負うだろうに、張宇も浬角も、まるで木の枝のように軽々と剣を扱い、動きにまったく淀みがない。


「わたしは今まで、浬角ほど剣の腕が立つ者はいないと思っておりましたが……。やはり、龍華国はすごいですね。これほどの武官がいらっしゃるとは……っ!」


 きらきらと感嘆のまなざしを張宇と浬角に向けたまま、藍圭が口を開く。


「わたしも、鍛錬を積めば、お二人のように強くなれるでしょうか……?」


 不安そうにこぼした藍圭の手を、初華がそっと両手で包んだ。


「藍圭陛下は真摯に鍛錬に取り組まれておりましたもの。続けられれば、必ずやお強くなられますわ。ですが」


 初華がにっこりと愛らしく微笑む。


「藍圭陛下ご自身が浬角殿のようにお強くなられる必要はございませんわ。浬角殿おそれを望んではいらっしゃらないでしょう。藍圭陛下はすでに、国王としてのしなやかな強さと、浬角殿が唯一無二の主人だと認める度量の広さをお持ちでいらっしゃいます。陛下に必要なものは、敵をほふる剣の強さではなく、仕えてくれる者がどうすれば一番良い働きをできるか、国王としてそれを考えることでございますわ」


「国王として、ですか?」


「ええ」

 藍圭の呟きに、初華が大きく頷く。


「今は、藍圭陛下にお仕えする者は少ないやもしれません。ですが、陛下のお味方は、これからどんどん増えていきましょう。その際に、臣下の才を見極め、その者が最もよく力を発揮できる地位につけること。これは陛下にしかできぬことでございます。……もちろん、わたくしもおそばでお手伝いさせていただきとうございますが」


 初華が思わず見惚れずにはいられない慈愛に満ちた笑みを浮かべる。明珠も思わず視線を奪われ、張宇達から目を離した。


「国王であるわたしにしか、できぬこと……」

 藍圭が噛みしめるように呟いた瞬間。


 かあんっ! と、ひときわ高い音が響いた。


 はっとして張宇達を振り返った明珠の目の飛び込んだのは、浬角の喉元に木剣を突きつける張宇の姿だった。


「……参りました」


 息が上がってかすれた声で呟いた浬角が、木剣を握りしめていた右手を力なく下ろす。


「正直に申し上げると、勝つ気で挑んだのですが……。まさか、これほどお強いとは……。井の中の蛙だと思い知らされた心地です。お見それいたしました」


 浬角が感嘆と悔しさが入り混じった声で告げる。浬角の喉元から剣を引きながら、張宇が「いえいえ」と穏やかに微笑んだ。


「たまたま運がよかっただけです。危ない場面は何度もありました。こちらこそ、手合わせの相手に選んでいただき、ありがとうございます」


 剣を下ろした張宇と浬角が、お互いに一礼し合う。おもてを上げた浬角がかぶりを振った。


「ご冗談を。まだまだ余裕があるようにお見受けしました」


「とんでもありません。浬角殿が花を持たせてくださったおかげですよ。これほど腕が立つ浬角殿にお守りいただけているのでしたら、藍圭陛下も安心でございましょう」


「そうなのです! 浬角がわたしを守り、そばで支えてくれていることは、どれほどの幸運が……。いくら感謝してもし足りぬのです!」


 心をほぐすような穏やかな張宇の声に、当の浬角よりも早く、藍圭が大きく頷く。


「藍圭様……っ。もったいないお言葉でございます」


 感極まったように声を震わせた浬角が、片膝をついて恭しくこうべを垂れる。激しく動いて汗だくになった精悍な顔から、ぱたた、と汗の雫が甲板へ落ちた。


「喉が渇いてらっしゃるでしょう? 《氷雪蟲》で冷やした飲み物を用意しておりますの。萄芭とうは


 すぐに気づいた初華が、後ろに控える萄芭を振り返る。


「あっ、では、張宇さんには私が……っ」


 せめてこんな時くらい率先して動かねばと、明珠は萄芭から水が入った杯を受け取り、張宇へと小走りに持っていく。


 よく冷やされているのか、杯を持っただけでひやりと冷たいのがわかる。絞られた柑橘類の汁が入っているのだろう。爽やかな香りが鼻をくすぐる。


「張宇さん、どうぞ」

「ありがとう」


 差し出すと、木剣を小脇に抱えて杯を受け取った張宇が、喉を鳴らして一気にあおる。


「ふう。暑い日に冷たいものを飲めるなんて、贅沢ぜいたく極まりないな。生き返るようだよ」


 一息で飲み干した張宇が大きく息をつく。


「張宇さん、すごかったです! 私、張宇さんが戦われるところを見る機会が、今までほとんどありませんでしたけど……。格好よくて、勇ましくて……。思わず見惚れてしまいました!」


 興奮した勢いのまま、空になった杯を受け取りながら張宇の凛々しい面輪を見上げて告げると、穏やかなまなざしが照れたように揺れた。


「ありがとう。でもまあ、何事も起こらずに俺の出番がないというのが、一番いいことだから。明順が俺が戦う姿を見ずに済むなら、それが何よりだよ」


 照れ隠しか、張宇がぽふぽふと明珠の頭を撫でてくれる。大きくて、頼もしい手のひら。


「もちろん、今までも頼りにしていましたけれど、張宇さんがいてくださったら安心と、龍翔様がおっしゃる理由がよくわかりました! 本当に、張宇さんが守ってくださったら、怖いものなんて何もありませんねっ!」


 禁呪に侵され、制約の多い龍翔だが、張宇がそばで警護してくれるのなら、頼もしいことこの上ない。

 初華や藍圭にだって、賊の危険が近づくことなど、決してないに違いない。


 感嘆と崇拝のまなざしで背の高い張宇を見上げていると、精悍な面輪が薄赤く染まった。


「め、明順……。褒めてくれるのは嬉しいけれど、そう手放しで褒められたら、照れてしまうというか……。あの、さっきから、龍翔様がものすごい顔でこっちを見てらっしゃるんだが……」


「え?」


 驚いて振り返ると、


「いやーっ、もう明順チャンったらやっぱサイコ――っ!」


 と、なぜか腹を抱えて大笑いしている安理の横で、こちらもなぜか龍翔が秀麗な面輪をしかめて明珠と張宇を見ていた。と。


「浬角殿。木剣をお借りしても?」


「ええ。もちろんですが……?」


 龍翔が浬角に声をかけ、先ほどまで使っていた木剣を受け取る。慣れた様子で何度か素振りし。


「張宇。もう一戦くらいかまわぬだろう? わたしも最近、身体を動かす機会がとんとなかったからな。少しつき合え」


「ちょっ!? 龍翔サマわかりやすすぎっ! 大丈夫っスよ~♪ 張宇さんに張り合わなくても、明順チャンはちゃーんと龍翔サマも頼りにしてますって♪」


 張宇に告げた龍翔の隣では、安理が相変わらず腹を抱えて大笑いしている。それほど面白いことが何かあったのだろうか。


「龍翔様がお望みでしたら、俺に否はありませんが……」

 袖で額の汗を拭った張宇が答えたところで。


「よろしければ、わたしにお相手を務めさせていただけませんか?」


 甲板に姿を現した玲泉の柔らかな声が割って入った。

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