71 よく、泣くのをこらえたな その2


 夜中とはいえ、国王が宿泊する離宮。警護の人間はそれなりにいる。

 だというのに、妙に静かすぎる、と。


 嫌な予感を覚え、藍圭の警護を他の者に命じて向かった国王夫妻の寝室で。


 浬角は、血の海の中でこと切れた国王夫妻の遺体を見つけたのだという。


 驚愕に固まった浬角を現実に引き戻したのは、火の粉がはぜる音だった。


 部屋から飛び出した浬角の目に飛び込んだのは、廊下のあちらこちらで突然、上がり出して火の手――。


 だが、迫る炎よりも、誰一人として逃げ惑う者がいないということが、浬角を戦慄せんりつさせた。


 逃げる者がいないということは、警護の者を含めた使用人達も皆、すでに無力化されているか、こと切れているかということに他ならない。


 乾燥している冬でもないのに、いったいどういうわけか、どんどんと燃え広がる炎の中を、藍圭の部屋まで一目散に駆け戻り――。


「あと数舜、遅れていれば、藍圭陛下もまた、凶刃に伏されていたでしょう」


 その時の恐怖を思い出したのか、話す浬角の精悍せいかんな顔は、固く強張っていた。


「わたくしが藍圭様のお部屋に戻った時、賊は護衛を斬り伏せ、まさに藍圭様に手をかけようと……」


 明らかに手練てだれとわかる賊を捕らえるよりも、藍圭の身の安全を優先した浬角は、無我夢中で藍圭を抱きかかえ、露台から華揺河かようがわへ飛び込んだのだという。


「飛び込む際に、背中を賊に斬りつけられて深手を負い……。藍圭様が《癒蟲》で治してくださらなければ、あのまま、華揺河の流れに逆らえず、おぼれ死んでいたでしょう……」


 話し終えた浬角の手を、両手でぎゅっと握りしめたのは、それまで黙して話を聞いていた藍圭だった。


「違うよ、浬角。わたしが生き残れたのは、お前がいてくれたからだ。わたし一人では、決して賊にこうしえなかった。お前が賊の不意を突いてくれたからこそ……。二人だったからこそ、なんとか生き残れたんだ」


「藍圭様……!」


 両親と失くしたというのに、従者を気遣う藍圭の言葉に、浬角の目が潤む。


 だが、藍圭にとって、あの夜の話はやはり精神的につらかったのだろう。明らかに憔悴しょうすいした様子の藍圭を慮って、続きは少し休んだ後に昼食をとってから、と船へ戻ってきたのだが。


 龍翔は腕の中で泣きじゃくる明珠を、そっと優しく抱き寄せる。


 罪悪感で心がきしむ。

 藍圭が両親を亡くしたことを知っただけで泣いていた明珠だ。くわしい事情を知れば、ふたたび涙するとわかっていたのに……。


 いつまた賊に襲われるがわからぬこの状況で、龍翔の目の届かぬところにやるのは、どうしてもできなかった。


「すまぬ……。すまぬ、明珠」


 ひっくひっくとしゃっくりあげる明珠の背をあやすように撫でながら詫びると、明珠がふるふるとかぶりを振った。


「り、龍翔様のせいでは……。こ、これは私が勝手に……」


 右手で手巾を顔に押しあてた明珠が、とぎれとぎれに言い募る。左手は先ほどからずっと、すがるように龍玉を握りしめたままだ。


 だからだろう。そんな場合ではないとわかっているのに、蜜の香気に理性が酩酊めいていしそうになる。


「どうしたら、お前の哀しみを癒してやれる?」


 手巾を握りしめる右の手首を掴み、顔の前からのける。濡れた頬に唇を寄せ、優しく涙をすい取ると、明珠が可愛らしい悲鳴を上げた。


「り、龍翔様っ!?」

 泣きはらした目元が、さらに紅く染まる。


「あ、あの……っ」


 明珠が身動みじろぎしてにげようとするが、一度、蜜を含んでしまった龍翔は止められない。ちゅ、ちゅ、と優しく明珠の頬にくちづけを降らせる。


「すまぬ。わたしはお前を泣かせてばかりだな」


 愛しい少女を泣かせたくなどないのに。己のふがいなさが情けなくなる。


 龍翔の苦い声に、明珠がぶんぶんと首を横に振る。


「違います! 龍翔様のせいじゃ……っ」

「だが」


 明珠の唇に親指でふれると、明珠が小さく息を飲んで声を途切れさせる。


 泣かないようにと、ずっと噛みしめていたのだろう。下唇には、くっきりと歯列の跡がついていた。


「愛らしい唇に、このように跡をつけて……。よほど、我慢したのだろう?」


 親指の腹でそっと唇を辿たどると、腕の中の身体がふるりと震えた。思わず、蜜の香気を洩らす唇にくちづけたくて仕方なくなる。


 明珠の哀しみを、龍翔がすべて飲み干せてしまえればよいのに。


 叶うことのない望みだと知りながら、新たな涙が浮かんだまなじりにくちづける。


「これほど泣いていては、愛らしい瞳がけてしまうぞ?」


「ええっ!?」


 目を見開いた明珠に「冗談だ」と微笑むと、つられたように明珠もようやく口元をほころばせた。


「もうっ、驚かせないでくださいっ」


 頬をふくらませて怒る明珠をぎゅっと抱きしめる。


 明珠の微笑みが見られただけで、自分でも信じられぬほど、心が安らぐ。

 愛しさがあふれるままに額にくちづけると、明珠が「ひゃっ」と声を上げた。


「あ、あの、龍翔様っ。もう大丈夫ですから……っ」


「もう少し」

 逃げようとするたおやかな身体をぎゅっと引き止める。


「お前の中の恐怖と哀しみが融けて消えてしまうまで、こうしていてもかまわぬか?」


 問いかけると、明珠の肩がふるりと震えた。うつむいた面輪は、固く険しい。


「浬角様のお話によると、前国王ご夫妻様は、賊の手に……。ということなんですよね?」


「ああ、その場に居合わせた浬角が言うのだ。間違いなかろう」


 恐怖を和らげるべく、震える明珠の背を優しく撫でながら頷く。


「その賊は……。周康さんを襲った賊と、同じ人物なのでしょうか……?」


 明珠の問いに、龍翔はわずかに沈黙する。

 その可能性は龍翔も考えていた。そしておそらく。


「証拠を掴んだわけではないが、おそらく同一人物だろう」


 頷き、肯定を返す。


「厳しい警護をかいくぐり、《霊亀れいき》の力を持つ王を害せる者……。加えて、浬角殿は術師ではないゆえ確証はないが、離宮の火事の原因は《炎熱蟲》を放ったためだろう。でなければ、消化できる人手がいなかったとはいえ、離宮ほどの大きい建物が一夜にして灰燼かいじんに帰すわけがない。そのような技量を持った術師が、そう何人もいるとは思えぬ」


 話しているうちに、明珠が賊に襲われた時の恐怖が甦り、抱く腕に思わず力がこもる。明珠が苦しげな声をかすかに上げた。


「す、すまぬ」


 あわてて緩めると、明珠がほ、と吐息をもらした。だが、愛らしい面輪は固い表情を宿したままだ。

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