68 晟藍国の旗を掲げた船 その3


「先ほど、おぬしは藍圭陛下を手に負えぬと申したが……。手に負えぬのは、おぬしであろう?」


「……は?」


 突然の龍翔の冷ややかな声に、瀁淀が間の抜けた声を洩らす。構わず龍翔は射るように瀁淀を睨みつけた。


「誰よりも王に忠誠を誓わねばならぬ大臣の身でありながら、叔父である立場を利用して、藍圭陛下をないがしろにし、己の意のままに政を動かそうなどと……。度し難いのはおぬしであろう。そのような者の世話になるほど、わたしも初華も落ちぶれてはおらぬ」


「なっ、な……っ!?」


 瀕死ひんしの魚のように瀁淀がぱくぱくと口を開閉する。怒りのせいか、衝撃のせいか、脂ぎった顔は赤黒く染まり、醜悪極まりない。


 藍圭の元へ行かせず、目の届くところでもてなそうとする瀁淀の魂胆は想像がつく。なんとしても龍翔や初華を懐柔し、己のつごうのよいように事を運びたいのだろう。


 龍翔は瀁淀の隣でかしこまる青年に視線を走らせる。


 もしかしたら、瀁淀は藍圭を亡き者にして、初華と息子をめあわせようと密かに企んでいるのやもしれぬ。龍華国の後ろ盾が得られれば、瀁淀の地位は確固たるものとなろう。


 龍華国のほうも、あれだけ盛大に送り出した皇女が出戻るなど、外聞が悪いといって、決して受け入れまい。

 万が一、藍圭の身に何かあった場合、瀁淀もしくはその息子に嫁がされる可能性は十分にある。瀁淀もそれを狙っているに違いない。


 だが。

 龍翔はそんな事態を認めるつもりは断固としてない。大切な妹がみすみす不幸になる事態など、許せるはずがなかった。


 瀁淀の所業を調べるために、真意を隠して近づく策を考えなかったわけではない。


 だが、傲慢にも龍華国の船の進路を遮り、龍翔達を己の意のままに動かそうとする瀁淀の人となりを知った今、その気は失せてしまった。


 むしろ、藍圭が瀁淀の手にかからぬよう、一刻も早く合流せねばと焦燥に駆られる。


 龍翔は初華を挟んで反対側に立つ玲泉をちらりと見やった。


 何やら楽しげな表情で、黙したままやりとりを眺めていた玲泉は、龍翔の視線を受けると、仕方がないとばかりに苦笑する。


「おやおや。龍翔殿下はひどく気が立っておられるようだ。初華姫様が賊に襲われかけたとはいえ、左様に余裕を失くしておいででは、差し添え人としての務めにもさわりが出ましょうに」


 からかい混じりの言葉に、龍翔はぎゅっと眉根を寄せる。が、視線は瀁淀に向けたままだ。


 「賊」という単語が出た途端、瀁淀達がおののくように震えたが、心の動きまでは読み取れない。


 玲泉がゆったりと口を開く。


「わたしは、汜涵の藍圭陛下の元へ行くよりも、瀁淀殿とともに、晟都で婚礼の準備を進めたほうがよいと思いますがねえ。離城では、長旅で疲れた身体をゆっくりと癒すこともままならぬでしょうし」


 ふう、と物憂げに吐息した玲泉に、味方を得たと思ったのか、瀁淀が大きく頷く。


「おっしゃる通りでございます! 汜涵の離城は、華揺河の運航を見守るための粗末なとりで。城と呼べるほどのものではございませぬ。とてもではありませんが、龍華国の高貴な方々をお招きし、おくつろぎいただける城ではございません! 龍華国からわざわざおいでくださった皇女様をもてなさなかったとなれば、晟藍国の名折れでございます! なにとぞ、皆様方には晟都の王宮にお越しいただきたく……」


「……と、瀁淀殿は申しておりますがね。いかがなさいますか? 初華姫様」


 玲泉が楽しげに初華を振り返る。


 きらびやかな傘から垂れる紗の中で押し黙っている初華に、全員の視線が集中する。

 じらすようにたっぷりと間をとってから、初華がようやく口を開いた。


「わたくしは、藍圭陛下の元へまいります」


 涼やかな声が、きっぱりと告げる。


「な……っ!?」

 瀁淀が愕然がくぜんと息を飲む。


「お、お待ちくださいっ、初華姫様っ! 先ほど申し上げた通り、汜涵の離城は砦に等しく、薄汚れた兵士達の詰め所となっております! とてもではありませんが、初華姫様や差し添え人のお二方をお招きできるような場所ではなく……っ! 女人は婚礼に際して、ご準備なさらなければならぬことも数多くございましょう? どうか、玲泉様の言を受け入れ、晟都へお越しくださ――」


「お黙りなさい」


 ぴしゃり、と厳しい初華の声が、瀁淀の口を縫い留める。


「ひとつ、確認しておきますわ。わたくしは、何者かしら?」

 高圧的に問う初華に、瀁淀はぽかんと呆けた顔をする。


「そ、それはもちろん、龍華国の皇女様であらせられ……」


「それで?」

 初華が冷ややかに続きを促す。


 質問の意図が読めぬ瀁淀が、困り果てた顔で押し黙った。代わって、初華が口を開く。


「わたくしは、藍圭陛下の妻となり、この国の正妃となる者、でしょう?」


 念押しするような初音の声音に、「さ、左様でございます」と、瀁淀が首肯する。


「でしたら」

 初華が発する圧が高まる。


「そのわたくしが、汜涵へ向かうと言っているというのに、なぜ従わぬのです? わたくしを未来の正妃と思うなら、今すぐ行く手をあけなさい!」


 愛らしい容貌のどこから、と思うような気迫で、初華が命じる。


 ふだん、あまり居丈高にふるまうことのない初華だが、そこはやはり生まれながらの皇女だ。己を大きく見せるすべを知らずして、権謀術数が渦巻く王城で追い落とされることなく過ごすことは叶わない。


 初華の気迫に飲まれて押し黙る瀁淀に、玲泉がにこやかに話しかける。


「というわけでね。差し添え人としては、初華姫様のご意向には逆らえぬからねぇ。残念ながら、すぐに晟都へ行くことは叶わぬようだ晟都へ赴いた際には、瀁淀殿のもてなしを期待しているよ」


 とりなすように告げた玲泉に、瀁淀がほっとした様子で大きく頷く。


「それはもう! 心よりおもてなしいたします! 楽しみにしていてくださいませ!」


「では、我らは汜涵の離城へ行くということでよろしいですかな?」


 龍翔を向いて問うた玲泉に、「ああ」と簡潔に頷く。初華がくるりと背を向けた。


「わたくし、船室へ戻りますわ。気分を害しました」


 つん、と高慢な様子で去る初華を、萄芭と張宇、明珠があわてて追う。


 瀁淀達の目には、龍華国の威を笠に着た、気位の高い扱いづらい姫という印象が、さぞくっきりと刻まれたことだろう。

 決して、御しやすい相手だと瀁淀側に侮られるわけにはいかない。


「おやおや。姫様がご機嫌を損ねてしまわれた。これは、お心を慰撫いぶしなければなりませんね」


 わがまま娘に手を焼いていると言わんばかりの苦笑いをこぼしながら、玲泉も初華の後を追う。


「即刻、進路をあけよ」


 高圧的に命じて、龍翔も瀁淀達に背を向ける。


 ひとまずは、これでよい。


 龍華国の名を背負う身としても、龍翔自身としても、瀁淀などに侮られるわけにはいかない。それは、初華も同様だ。


 ことに、初華は今後、藍圭の正妃として共に晟藍国を統べる身なのだから。どちらの立場が上なのか、最初にはっきり示しておかねば。


 龍翔は先を悠然と歩む玲泉の背を見やる。


 さすが、人格はともかく、能力には信がおける玲泉だ。何も言わずとも、龍翔の意図をんで動いてくれた。


 高圧的でつけこみにくそうな龍翔と初華に対し、物腰柔らかで、晟都で優雅に過ごすことを望む玲泉……。

 龍華国側も一枚岩ではないという印象を植えつけられただろう。


 今後、瀁淀はまだつけ入る隙がありそうな玲泉に接触してくるに違いない。


 簡単には尻尾を掴ませてはくれぬだろうが……。


(まだ、晟藍国に着いたばかりなのだ。焦らず、確実に切り崩してゆけばよい……)


 季白を従えて歩きながら、龍翔は今後の算段を巡らせた。

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