68 晟藍国の旗を掲げた船 その1


「申し上げます! まもなく汜涵しかんの離城へ着きますが、前方から晟藍国の旗を掲げた船が参っております!」


 船長が緊張した面持ちで初華の船室へ報告しに来たのは、龍翔と明珠が初華や季白達と顔を合わせていくばくも経たぬうちだった。


「まあっ! 明順は何を着ても可愛らしいわね。いつか、明順を好きに着せ替えして楽しめないかしら……?」


 と、かなり本気な様子で呟き、明珠をあわてさせていた初華が、船長の言葉を聞いた途端、表情を引き締める。


「船は藍圭陛下のものかわかるか?」


 龍翔の問いに、船長は日に焼けた顔を困ったようにしかめた。


「晟藍国の王族にしか許されぬ《霊亀》の意匠の旗を掲げておりますゆえ、その可能性は高いと存じます。ただ……。甲板に藍圭陛下らしきお姿は見当たりませんでした。代わりに、立派な身なりの五十代ほどの男性と、そのご子息とおぼしき方がいらっしゃいます」


 船長の言葉に、龍翔は初華と顔を見合わせた。


「それは、わたくし達も甲板へ出たほうがよいようですわね」

 龍翔の考えを読んだかのように初華が告げる。


「初華。ひとまずわたしが出るゆえ、お前は今しばらく――」


「ですが、お兄様は藍圭陛下にも、従者の浬角りかく殿にもお会いされたことがありませんでしょう? 浬角殿だけが甲板に出られていた場合、お兄様では判断できませんわ」


 兄の言葉を遮った初華が、


萄芭とうは、わたくしはお兄様達と甲板へまいります。もし、船が藍圭陛下がお乗りのものでしたら、お出迎えできるよう支度を」


 と命じ、さっと身を翻す。「かしこまりました」と応じた萄芭が、近くの侍女に初華の命を伝えると、急いで後を追ってきた。


「止めはせぬゆえ、待て初華。明順、お前も来い。張宇、明順を頼んだぞ」


 季白達を従え、龍翔もあわてて初華を追う。まったく、こうと決めたら引かない初華の性格は、幼い頃からまったく変わっていない。


 廊下を進んでいる途中で、唯連いれんを従えた玲泉に行き会った。


「晟藍国の船がこちらへ近づいてきているようだ」


 玲泉が余計な口をきく前に、龍翔から声をかける。玲泉が端麗な面輪を引き締めて首肯した。


「そのようでございますね。さて。出てきたのはどちらやら……」

「おぬしの読みではどちらだ?」


 汜涵しかんの離城から出迎えに来た藍圭か、それとも、藍圭より先に初華に接触しようとする瀁淀ようでんか。


 龍翔の問いに、玲泉は笑って豪奢ごうしゃな衣装に包まれた肩をすくめる。


「さて。甲板に出てみれば、すぐにわかるかと存じますが。……ただ、汜涵へはあと半刻(約一時間)もかかりますまい。聡明な藍圭陛下のこと。立派な船を出す余力がおありでしたら、汜涵の離城で待たれるのではなく、直接、この船に来られそうなものでございますが……」


「なるほど」

 玲泉の推測に納得して頷く。


「わたくし、瀁淀でしたら、容赦いたしませんわよ?」


 龍翔と玲泉に左右を守られて歩きながら、初華がきっぱりと宣言する。


「藍圭様に忠誠を誓わぬ者に甘い顔をする気はございませんんわ」


「お前の好きでよい」

 内心、妹の気の強さに苦笑しながら、龍翔は同意を示す。


「藍圭陛下に嫁ぎ、正妃となるのはおぬしなのだ。お前が正しいと思うようにふるまえばよい。ここには王城の口うるさい者達はひとりもおらぬ。お前の好きにするがよい。何かあれば、わたしと玲泉が支える」


 いくら初華が心配でも、永遠に龍翔がそばについてやることはできない。


 ならば、「差し添え人に守られた真相の皇女」と侮られるよりも、必要とあれば争いも辞さぬ姿勢を最初から打ち出しておいたほうがよい。


 何より、それが初華の本来の性格なのだから。蝶よ花よと大切に育てられた愛らしい皇女と見えて、その実、初華の性格はかなり勝気だ。


 龍翔の言葉に、玲泉も悠然と首肯する。


「ええ。どうぞ、初華姫様の思うままになさってくださいませ。龍華国の名を背負う以上、瀁淀ごときに軽んじられるわけにはまいりませぬ」


「うわーっ、お三方とも、ヤル気満々っスね~♪」


 後ろに付き従う安理が面白くて仕方がないといった様子で吹き出すが、あえて振り返らない。


 本当は突然のことに不安になっているだろう明珠を安心させてやりたいが、玲泉の注意を明珠に戻すようなことはしたくない。張宇に任せておけば大丈夫だと自分を納得させて、歩を進める。


 甲板へ出ると、夏のまばゆい陽射しが降りそそいでいた。


 初華の後ろに付き従っていた萄芭が、さっと初華に傘をさしかけた。


 赤い地に金糸銀糸でふんだんに刺繍がほどこされ、宝石が縫い留められた華やかな日傘だ。傘の端からは、切れ込みの入った地面に届きそうな長さの薄い紗が垂れていて、中にいる貴人の姿はおぼろげにしか見えない作りになっている。


 生半可な者は皇女の姿を拝むことすら叶わぬのだと、龍華国皇女の気位の高さを誇示するかのようだ。


 空はからりと晴れ、華揺かよう河を渡る川風は爽やかだ。少し先には、岸辺に立つ石造りの砦のような建物が見える。あれが汜涵の離城に違いない。


「あちらでございます」


 船長が恭しく指し示すより早く、くだんの船に気づく。


 龍華国と晟藍国を結ぶ水の大街道である華揺河には、多種多様な荷を積んだ荷船や、旅人を乗せた渡し船、岸辺に住む者の船だろう、粗末な釣り船など、大小さまざまな船が行き交っている。下流に近づいているため、川幅もかなり広い。


 その中で、《霊亀》の意匠が刺繍された晟藍国の旗を意気揚々と掲げた立派な船は、群を抜いて目立っていた。


 流れに逆らってこちらへ向かってくる船の両側では、船底にいる漕ぎ手達が操る大きなかいが一糸乱れぬ速さで動いている。櫂が水をく音と、漕ぎ手達の拍子をとる太鼓の音が、こちらまでかすかに聞こえてきた。


 立派な船とはいえ、龍華国皇帝の御幸に使われるこちらの船よりは小ぶりだ。こちらの甲板の方が高いので、龍翔達からは相手の船の甲板に立つ人物がよく見えた。


 《霊亀》を金糸銀糸で刺繍ししゅうした豪奢な衣を着た、恰幅のよい脂ぎった顔の四十前後の男と、息子と思われる二十歳くらいの青年。こちらも《霊亀》の意匠が刺繍された衣を纏っている。


「瀁淀と、その息子か」


 呟いた声は、我ながら低く冷ややかだった。


 言葉を交わさずともわかる。


 こちらの船を見上げている二人の顔からは、藍圭よりも早く龍華国の皇女に接触して、あちらの都合のよいように事を運ぼうという思惑と、目通りを断られるとは欠片も考えていない傲慢ごうまんさがありありと読み取れた。


 龍華国の宮中にはびこっているのと同じ、権力と富に取り憑かれた強欲者の顔だ。

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