67 世辞など、お前に言うものか


「あの、龍翔様……。ほんとにほんとーに、変じゃないですか……っ!?」


 衝立ついたての向こうから龍翔の元へやってきた明珠が、不安を隠しきれぬ様子で尋ねてくる。


「もちろんだ。どこも変なところなどないぞ」

 龍翔は優しく肯定したが、明珠の表情は晴れないままだ。


 晟藍国の国王、藍圭からの手紙が届いた翌朝。


 何事も起こらなければ、午前中には藍圭が待つ汜涵しかんの離城に着くということで、龍翔達は朝から支度に追われていた。


 藍圭以外にどんな者が離城に滞在しているのかわからぬが、晟藍国国王との初顔合わせの場だ。生半可な装いはできない。


 龍翔がまとうのは、王都を出立した日にも着た濃い青地に皇族の身分を示す銀糸で龍の刺繍がほどこされた豪奢ごうしゃな着物だ。

 供として付き従う季白や張宇、安理も隣室で着替えていることだろう。


 そして、衝立の向こうから出てきた明珠が纏っているのは、少年従者らしく、淡い水色に浅葱あさぎ色の色でひかえめな刺繍がほどこされた絹の衣装だった。


 もともとは明珠を龍翔の供として外に出す気などまったくなかったのだが、玲泉に賊にと、いつ明珠の身に危険が迫るかわからぬ以上、明珠を一人にしておくわけにはいかない。


 季白達が供として龍翔のそばに侍らねばならぬ以上、留守番をさせるよりも龍翔の目の届く場所に一緒に連れて行ったほうが、いくらか気が休まる。


 明珠がいま纏っている衣装は、不測の事態に備えて、事前に安理に用意させていたものだ。安理に見立てさせておけば、適したものを用意するだろうと、明珠本人には特に確認はとっていなかったのだが……。


「どうした? どこか丈の合わぬところでもあるのか? それとも着心地が悪いか?」


 先ほどからずっと浮かない顔をしている明珠が心配になって問うと、とんでもないとばかりに、ぶんぶんと首を横に振られた。


「だ、大丈夫ですっ。あつらえたようにぴったりです! で、ですが……っ」

 明珠の眉が今にも泣きだしそうにへにょんと下がる。


「わ、私なんかが絹の衣を着せていただくなんて、よいのでしょうか……っ!?」


 恐ろしげにぷるぷる震えている明珠に、「もちろんだ」と安心させるように大きく頷く。


「お前は第二皇子であるわたしの大切な従者なのだから。今日は藍圭陛下にもお目通りするのだから、立場にあった衣装を着るのは当然だろう?」


「ら、藍圭陛下にお会いできるのは嬉しいです! けど……」


 明珠がおろおろと不安げに視線を揺らす。


「私のような者が、絹の衣だなんて恐れ多すぎて……っ! 龍翔様はこんなに立派でいらっしゃるというのに、従者のひとりだけみっともない者が混じっていると、呆れられてしまうのでは……っ!?」


「何を言う?」


 まったく明後日の方向の心配をしている明珠に、思わず笑みがこぼれる。


「みっともないなど、そんなわけがなかろう。よく似合っておるぞ。あ、いや……」


 年頃の少女だというのに、少年の衣装が似合っていると告げるのは、気分を害するのではないかと、失言に言葉を濁すと、明珠の顔から血の気が引いた。


「やっ、やっぱり変ですよね!? わ、私、お供せずに船室にいたほうが……っ!」

「違う! そうではない!」


 わなわなと唇を震わせる明珠に、あわてて口を開く。


「言いよどんだのはその……。男装も似合うと言われても、娘であるお前は喜ばぬのではないかと……」


「そんな! 龍翔様にお褒めいただいて喜ばないはずがありませんっ! あっ、大丈夫です! ちゃんとわかっておりますから! 私の不安を解くためのお優しい龍翔様のお世辞だっ――、ひゃっ!?」


 思わず、細い腕を掴んで引き寄せる。たたらを踏んだ身体を、ぎゅっと抱きしめた。


「世辞など、お前に言うものか」


 見上げる明珠を視線を合わせ、甘く微笑む。


「本当に、よく似合っている。……たとえ男物の衣装をまとっていようと、お前は、十分に愛らしい」


「ふぇっ!?」


 告げた途端、すっとんきょうな声を上げた明珠の面輪が、一瞬で真っ赤に染まる。


「愛らしくて、玲泉などに見せてやるのが惜しいくらいだな」


 明珠を見て目を輝かせるだろう玲泉を想像するだけで、苦々しい気持ちが湧きあがる。が、どこに賊が潜んでいるかわからぬ以上、明珠を目の届かぬところで留守番させるなど、考えられない。


 真っ赤な顔であうあうと口ごもっている明珠の様子に、自然と口元が緩む。ひとつ吐息し、龍翔は胸中に渦巻く苛立ちと迷いを追いやった。


「明珠。……くちづけても、よいか?」


 視線を合わせて問うと、腕の中の明珠の身体が、ぴょんと跳ね上がるように震える。


「く、くくくく……っ!? あっ、はい!《気》ですね!」


 紅い顔のままこくこくと頷いた明珠が、服の上から龍玉を掴み、ぎゅっと目を閉じる。

 昨日、涙で得た《気》がそろそろ尽きそうになっている。《気》を補充しなければならないが……。


 《龍》の気が毒と知ってから、龍翔からくちづけるのは初めてだ。嫌でも緊張してしまう。


「昨日、お前は嫌な《気》を感じないと言っていたが……。よいか? もし、少しでも嫌な気配を感じたら、すぐに言うのだぞ?」


 できるだけ、優しい声音で言い聞かせると、明珠が目をつむったまま、緊張した面持ちでこくんと頷く。


 なめらかな頬にふれて上を向かせ、そっと軽くくちづけ。


「……どうだ?」


 内心、不安におののきながら尋ねると、明珠がぱちりと目を開けた。


「だ、大丈夫です! 悪い《気》なんて、何も感じません!」


「そう、か……。よかった……っ」

 心の底から安堵し、詰めていた息を吐き出す。


 初華との話し合いで、くちづけ程度ならば、ほとんど負担にならぬだろうと推測はついていたが、実際にくちづけるまで、ずっと不安だったのだ。


 大切な少女を、《龍》の気で傷つけていないとわかっただけで、昨日から胸の奥にわだかまっていた黒いもやの一部が、ゆっくりと融けて消えてゆく心地がする。


「だが、これからも嫌な《気》を感じたら、すぐに言うのだぞ?」

「は、はいっ」


 素直に応じる明珠に満足して頷く。


「で、では、その……」


 龍翔の腕の中から逃げたそうに身動ぎする明珠に、「すまぬが」と苦笑してかぶりを振る。


「あれだけでは、とてもではないが、夕刻までもたぬ」


「えっ? あ……っ、すみませんっ」

 謝りながら、明珠がふたたびぎゅっと目を閉じる。


 龍翔は緊張のせいか、うつむきがちになっている明珠の面輪を片手で包み、そっと上を向かせた。身をかがめ、ぎゅっと引き結んだ唇に軽くくちづける。


 それだけで。けそうに甘い蜜の香気が、龍翔の思考を酩酊めいていさせる。


「頼むから、息を止めてくれるな」


 わずかに唇を離して懇願し、指先で耳朶にふれると、たおやかな身体がかすかに揺れた。わずかに緩んだ唇から、こぼれる蜜が、甘く濃くなる。


 深くくちづけたくなる衝動を自制心を総動員してこらえ、できるだけ、優しく唇を重ねる。


 龍翔だけが知る、甘い蜜。

 いつまでもくちづけていたいという誘惑に耐え、身を離すと、明珠が詰めていた息を吐きだした。


「大丈夫か?」

 心配になって問うと、明珠が真っ赤な顔でこくと頷く。


「だ、大丈夫です……。やっぱり、悪い《気》なんて、感じません」


「そうか。それは何よりだ」


 ほっとして明珠の頭を撫でると、明珠がくすぐったそうに肩をすくめた。

 このまま、愛らしい明珠と過ごしていたいが、そういうわけにもいかない。龍翔は名残惜しく思いながら、明珠を抱き寄せていた腕をほどく。 


「この後、初華の船室へ行く。藍圭陛下にお会いするとなれば、さしもの初華も落ち着き払ってはいられないだろうからな……。せめて、そばについていてやりたいのだ」


「はい! ではすぐに参りましょう!」

 明珠が笑顔で大きく頷く。


「初華姫様がしなやかでお強いお心を持ってらっしゃるのは重々承知しておりますけれど、ふとした拍子に、不安に襲われることもありましょう。頼りになる龍翔様がおそばにいてくださったら、きっとお喜びになると思います!」


「おととい、お前がわたしを見て、安堵してくれたようにか?」


 からかい混じりに問うと、明珠の頬がさあっと紅く染まった。が、恥ずかしそうにしながらも、力強くこくんと頷く。


「そうです! 龍翔様ほど、頼りになってお優しい方はいらっしゃいませんから……っ」


 素直な賞賛のまなざしに、こちらのほうが逆に照れくさくなってしまう。


「では、行くか。きっと季白達も先に初華の元へ行っているだろう」


 うっすらと熱を持った顔を見られたくなくて、龍翔は明珠の小さな手に指を絡めると手を引いて船室を出た。

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