66 いっそのこと、禁呪など解けなくともよい その4


 地の底から響くように低い龍翔の声に怯えるように、明珠の唇がわななく。


 しおれた花のように、視線を落としてうなだれるさまに、どうしようもなく心がきしむ。


「そ、その……」


 ややあって、明珠が意を決したように声を上げる。

 龍翔を見上げる瞳は、あふれんばかりの不安に揺れていた。


「わがままだってわかっているですけれど、その……っ」


 龍翔は黙して続きを待つ。


 明珠のわがままなら、どんなことでも叶えてやりたい。――それが、玲泉に関することでさえなければ。


「き、季白さんがきっと許してくれないってわかってるんですけど……っ。そのっ、禁呪が解けた後も、ずっとお仕えさせていただけませんか……?」


「っ!」


 予想もしなかった「わがまま」に息を飲む。

 表情を凍りつかせた龍翔に、明珠があわあわと言を継いだ。


「すっ、すみませんっ! わがままだってわかってるんです! お優しい龍翔様にこんなお願いをしたら困らせてしまうって……。で、でも、黒曜宮の下働きでかまいませんからっ! どんな雑用でもしますから、どうか――、ひゃっ!?」


 思いきり抱き締められた明珠が悲鳴を上げる。


「お前は……。本当に、いつもわたしの予想を軽々と……」


 告げてしまおうか。と、一瞬、甘美な誘惑が心を占める。


 誰よりも、お前が愛しいのだと。

 玲泉などに渡せるわけがない。禁呪が解けようと解けなかろうと、お前にずっとそばにいてほしいのだと……。


 そう、告げてしまいたい衝動に襲われ。


 龍翔は、激情をいなすように明珠の額にくちづける。


「り、龍翔様っ!?」


 すっとんきょうな悲鳴が上がるが、かまわない。

 己の口をふさいでおかねば、あふれる想いがうっかりこぼれ出してしまいそうで……。


 明珠の蜜の香気を感じながら、龍翔は胸に渦巻く衝動をなだめる。


 告げられるわけがない。


 禁呪使いに命を狙われ、政敵に失脚を望まれる不安定な身の上で。ましてや、《龍》の気は毒だというのに――。


 身も心も、龍翔だけのものにしたいだなどと。


 告げられぬ代わりに、額から頬へと唇をすべらせ、柔らかな頬に残る涙の雫を優しく吸い取ってゆく。


 熟れたように真っ赤に染まる明珠の頬は、唇を融かすほどに熱い。理性まで融かしそうになる熱さと蜜の甘さに、陥落してしまいたい誘惑をこらえながら、優しくやさしく唇で涙をぬぐってゆく。


 無駄なあがきと知りつつも、胸の奥底で牙を剥く渇望を、少しでもなだめられないかと。


 二人きりの船室に、ちゅ、ちゅ、とかすかに湿った音が響く。


「あ、あの、龍翔様。そろそろ……っ」


 固く目をつむり、服の上から龍玉を握りしめていた明珠が、息も絶え絶えな声を上げる。


「……もう、駄目か?」


 いくらくちづけても、満たされるどころか、まだまだ足りぬともっとくちづけたくなるというのに。


 龍翔の問いかけに、明珠があうあうと言葉にならぬ困惑しきった声を洩らす。


 本当はダメだと断りたいが、主の手前、それも言い出しづらい……。そんな気配を感じ取って、ようやく理性が優勢を取り戻した龍翔は、仕方なく身を離す。


 いつまでも明珠を腕の中に閉じ込めておきたいが、愛しい少女を困らせるのは本意ではない。


 小さく吐息して身の内の熱情を逃し、明珠を見つめる。


「先ほどのお前の「わがまま」だが」


「は、はいっ」


 わずかに腕を緩めて告げると、まぶたを開けた明珠が、ぴんっと背を伸ばした。龍翔は緊張した面持ちの明珠に視線を合わせ、柔らかく微笑む。


「頼まねばならぬのは、わたしのほうだ。どうか、禁呪が解けた後も、ずっとわたしのそばにいてほしい」


 叶うならば、従者ではなく――。


 心の底からの願いはまだ秘めたまま、口には出さない。


「はいっ! もちろんです!」

 龍翔の心中など知らぬ明珠が、輝くような笑顔で大きく頷く。


 つぶらな瞳をきらめかせるさまは、龍翔に仕え続けられるのを純粋に喜んでいるのだと、見ただけでわかる。


 この笑顔をずっとかたわらに留めておくためならば、どんな苦難でも乗り越えられる気がする。


「まずは、玲泉を牽制けんせいしつつ、無事に差し添え人の務めを果たさねばな……」


 愛しい少女の髪を優しく撫でながら、龍翔は気を引き締めて呟いた。

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