66 いっそのこと、禁呪など解けなくともよい その3


「そんなこと、ありえませんっ! そもそも、玲泉が私なんかに、き、求婚なさる理由が、どこにあるんですか!?」


 かたくなに否定する明珠の言葉に、龍翔は思わず唇を吊り上げる。


「なぜかなど、決まっておろう? ……お前は、玲泉が唯一ふれられる女人なのだから」


 そっと手のひらで明珠の頬を包み、涙をぬぐう。明珠が戸惑ったように視線を揺らした。


「そ、そりゃあ、奥方になられる方はふれられるほうがいいのでしょうけれど……。だからといって、私のような平民をめとったりはしませんでしょう?」


 自分が蛟家に嫁ぐなどありえないと信じ切っている明珠の様子に、苦笑する。


 己にどれほどの価値があるのか……。当の本人が、一番わかっていないとは。


 龍翔にかけられた強力な禁呪を一時的とはいえ、弱められるというだけで稀有けうな存在だというのに、蛟家の嫡男である玲泉が唯一ふれられる女人となれば……。


 権力の亡者達が、山のように群がってくることだろう。


 この純真な少女を欲望渦巻く権力争いに引きずり込んだ張本人が自分なのだと思うと……。どれほど詫びても詫び足りない。


 だが同時に。もう決して、明珠をそばから離したくないとも。


 玲泉の求婚を受ける気がないという明珠の言葉は、心が舞い上がるほどに嬉しい。


 だが、明珠のことだ。単に、自分がどれほどの幸運に恵まれていないのか気づいていないだけに違いない。


 このまま、明珠の思い込みを利用して、龍翔に都合のよいことだけを吹き込んでしまえ、と甘く囁きかけてくる誘惑を振り払い、龍翔は静かに口を開く。


「蛟家は、玲泉がふれられる女人となれば、身分など関係なく、喜んで嫁として迎え入れるだろう。蛟家の嫁となれば、好き放題に贅沢ぜいたくができるぞ?」


「え……っ!?」


 明珠が目を丸くする。かまわず龍翔はたたみかけた。


「絹の衣も、高価な菓子や美食も、お前の望むままだ。……順雪に、贅沢もさせてやれるぞ?」


 最愛の弟の名を出すと、明珠の視線が大きく揺れた。


「それでも……。玲泉の求婚を受ける気はないと?」


 自分がどれほど愚かなことをしているのか、自覚はある。

 わざわざ玲泉の後押しをしてやる必要など、どこにもない。


 だが、明珠の心のうちを聞き出さぬことには、身の内で荒れ狂う激情を抑えられそうにない。


 でなければ……。今にも狂暴な感情が暴走して、いっときの独占欲を満たすためだけに大切な花を手折ってしまいそうで。


 明珠を傷つけたくないという想いと、他の誰かに取られるくらいなら、傷つけてでも自分のものにしてしまいたいという欲望が、龍翔の中で激しくせめぎ合う。


 つぶらな瞳で見上げる明珠は、龍翔の心の内のきたない思いなど、欠片も知らぬだろう。

 知れば、怯えるうさぎのごとく、跳ぶように龍翔の腕の中から逃げ出してしまうに違いない。


 ならば、今、腕の中にいるうちに――。


 頬にふれていた手を頭の後ろへ回し、ぐいと引き寄せようとして。


「それでも」


 澄んだ声に、動きを止める。

 明珠が、真摯な光を宿して、真っ直ぐに龍翔を見つめていた。


「それでもやっぱり、私には玲泉様の申し出をお受けする理由がありません。そ、そりゃあ、私なんかに、き、求婚していただけるのは恐れ多いことですし、お金の心配をしなくていい生活をうらやまないと言えば嘘になりますけれど……っ」


 ぽっと頬を染めた明珠が、恥ずかしそうに視線を揺らすと、「でも」とふたたび龍翔を見上げる。


「どう考えても、私なんかが蛟家に嫁入りして、ちゃんとやっていけるとは思えません。それに……。自分で稼いだお金じゃないのに贅沢するなんて! そんなこと、しちゃダメだと思います!」


 きっぱりと迷いのない口調で告げた明珠が、不意に眉を下げて情けなさそうな顔になる。


「ですからその……。龍翔様さえお許しくださるのでしたら、これからもお仕えさせていただけませんか……?」


 答えるより早く、身体が動く。

 華奢きゃしゃな身体を思いきり抱き締めると、明珠が小さく悲鳴を上げた。


「無論だ。お前を手放すはずがなかろう」


 柔らかな髪に頬をうずめて囁くと、ようやく明珠の身体からこわばりが抜けた。


「よかったぁ……」


 心の底から安堵して呟く様子に、龍翔の胸にも安堵が広がってゆく。


 欲望と思惑と策略が渦巻く後宮に生まれ、育った龍翔は知っている。人の心など、風に吹かれる雲よりもたやすく変わるものだと……。


 それゆえに、季白たち限られた者以外に心を許してはならぬと、ましてや他人がどんな感情を抱こうが、それに振り回されてはならぬと、自分を戒めてきたはずなのに。


 明珠にだけは、自制が利かない。

 春の嵐に舞い狂う花びらのように、心が千々にかき乱され、感情が制御できなくなる。


 どう接すればよいのか迷い、そばから去ってしまうのではないかと怯え、明珠を手に入れようとする相手に嫉妬するなど……。明珠と出逢う前には、考えられなかったことだ。


 春の風に舞う蝶のように、明珠の言動はいつも龍翔の想像の埒外らちがいで――。

 せめて、たおやかな身体だけでも、こうして腕の中に閉じ込めておきたくなる。


「わたしをこれほど惑わさせるのは、お前だけだな」


 吐息まじりに呟くと、明珠が弾かれたように顔を上げた。


「す、すみませんっ! いつも龍翔様を困らせてばかり、で……」


 見上げた顔の近さに、いま初めて気づいたかのように、明珠の声がぎこちなく途切れる。愛らしい面輪がさあっと薄紅色に染まった。


「す、すみませんっ、私……っ」


 龍翔の膝の上にいるのだと気づいた明珠が、握りしめていた衣をぱっと放す。

 乱暴に袖で涙をぬぐいながら逃げようとする明珠を、龍翔は強引に抱き寄せた。


「もう少し……。もう少しだけ、お前をそばに感じさせてくれぬか? お前がわたしのそばを離れぬと言ってくれた喜びを、心ゆくまで味わせてくれ」


 心から懇願すると、明珠の抵抗が弱くなる。素直さを愛しく感じながら、腕に力をこめ、華奢な身体を抱きしめる。


「玲泉の求婚を受ける気はないというお前の言葉で、どれほどわたしの心が安らいだか……。お前は気づいていないのだろうな」


 腕の中の蜜の香気に満たされながら低い声で呟くと、明珠がぱっと顔を上げた。


「前にも申したではありませんか! 途中でお仕事を放りだすような真似はいたしません、と!」


 珍しく、愛らしい面輪を険しくさせて明珠が訴える。


「龍翔様の禁呪が解けてもいないのに、辞めるなんて……っ! そんな無責任なこと、絶対にしませんっ!」


「では、禁呪が解けた後は?」


 止めるより早く、言葉は口から飛び出していた。


「ならば、いつか禁呪が解けた際には、どうするつもりなのだ? ――玲泉の求婚を受けるのか?」

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