64 晟藍国からの手紙 その5


戯言ざれごとを申すなっ! 行かせるわけがなかろう!」

 間髪入れずに龍翔が声を荒げる。


「わたしは明順に言ったのですよ。ではね、明順。泣き顔も愛らしかったよ」


 軽やかな笑い声を立てて玲泉が背を向ける。


 ぱたりと扉が閉まった瞬間、季白が音を立てそうな勢いで明珠を振り向いた。いつもは冷ややかに整った顔立ちは、今は悪鬼の形相と化している。


「明順っ! まったくあなたは! 一言も発するなと言っておいたでしょう!? あなたが不用意に口を開いたせいで、龍翔様が玲泉様に揶揄やゆされ、その上、頭を下げねばならぬ事態になるなど……っ! 己がどれほどの大罪を犯したのか、わかっているのですかっ!?」


 叩き斬るような季白の言葉の刃に、びくりと体が震える。新たな涙がじわりとにじんで、さらに視界がぼやけた。


「季白……。そうきつく明順を責めるでない。結果はどうであれ、明順はわたしのために玲泉に言い返してくれたのだから」


 龍翔のとりなしにも、季白の怒りは治まる様子がない。


「龍翔様は明順に甘すぎますっ! この際、明順には己の立場をわからせて、徹底的にしつけなければっ! でなければ、今後、晟藍国でどのような大失態を起こすか……っ! 不安と心労で、いまから胃に穴が空きそうですっ!」


 季白の訴えに、明珠の口をふさいだまま、龍翔が重々しく頷く。


「季白、お前の心配はよくわかった。明順には、わたしから重々言って聞かすゆえ……」


「いいえっ! こればかりは龍翔様お一人にお任せするわけにはまいりませんっ! 玲泉様の例の件もありますし……。ここは、わたしが骨のずいまできっちりと仕込んでおきますっ!」


 龍翔が一瞬固まった隙を埋めるように、季白がずずいっ、と身を乗り出す。押し留めたのは初華だ。


「季白、あなたの言うこともわかるけれども、このまま明順を泣かせたままにはしておけないでしょう?」


 懐から絹の手巾を取り出した初華が明珠へ手を伸ばす。絹の、しかも初華の手巾を汚してはと身をよじって逃げようとすると、ようやく龍翔の手が口から外れた。と同時に、ぐい、と龍翔のほうへ振り向かされる。


「龍翔様! 本当に申し訳ございません……っ!」


 深く下げようとした頭を、龍翔の手が阻む。なめらかな絹で頬をぬぐわれ、明珠はあわてて龍翔を押し留めた。


「大丈夫です! 龍翔様の手巾を使うなんて恐れ多い……っ! それより、なんとお詫び申し上げたらよいのか……っ! 本当に申し訳ありませんっ!」


「謝るくらいなら、もう少し考えて行動しなさいっ!」


 目を吊り上げ、叩き斬るように厳しい声を上げたのは季白だ。


「あなたの頭はへちまか何かですかっ!? 本当に中身が入っているかどうか、一度叩き割って確認したほうがいいかもしれませんね!」


「ひぃっ!」

 なたを構えた季白を想像して震える。


「それとも、二度と余計な口をきけぬよう、今すぐ口を縫いつけてやりましょうか!? 初華姫様の侍女達から太い針と糸を借りてきましょう! ええ、わたしが手ずから一針一針縫ってあげます!」


 怒髪天を衝く季白は、今にも言ったことを実行しそうな勢いだ。切れ長の瞳には抑えきれぬ怒りが渦巻いている。明珠が土下座をしても、到底許してもらえそうにない。


 太い針で刺されたらどれほど痛いだろうか。いや、それよりも、いつ借金倍増を言い渡されるかと思うと、気が気ではない。


「すっ、すみませんでしたっ! 許していただけるとは思いませんが、今から玲泉様を追いかけてお詫び申し上げてきますっ! 土下座でもなんでもして――」


「ならん!」


 がばりと立ち上がり、駆けだそうとした瞬間、思いきり腕を引かれた。よろめいた身体を、椅子を蹴立てて立ち上がった龍翔に抱きとめられる。


「ならぬ! お前を玲泉の元になどやれるかっ!」


 雷鳴のような怒声が明珠を撃つ。

 身体の芯まで穿うがつかのような剣幕に、反射的に身体が強張る。


「頼むから、無茶なことはしてくれるな。心配で、気が狂いそうになる」


 明珠を閉じ込めるかのように、ぎゅっと腕に力がこもる。


「す、すみませんっ。でも……っ」

「でもではない! 玲泉に謝るのはわたしが禁じる!」


 龍翔が決然と命じる。


「で、ですが、それでは玲泉様のお怒りを解くことが……っ。私では、謝罪しかできませんのに……っ」


「謝罪などで済むものか!」

 龍翔が荒々しく吐き捨てる。


 語気の鋭さに、明珠は縫い留められたように口をつぐんだ。また新たな涙があふれそうになって、ぎゅっと唇を噛みしめる。


「お兄様、落ち着いてくださいませ。明順は、玲泉様の危険をわからぬまま、言っているのですから……。季白も、明順を怯えさせるのはそこまでにしてやってちょうだい」


「お言葉でございますが」

 割って入った初華に、季白が反論する。


「わたくしは無闇に明順を怖がらせているわけではございません。あまりにも明順が愚かゆえ、優しく言って聞かぬなら、厳しく叱責する他ないと……」


「けれど、責め立てられた明順が思いつめた挙句、玲泉様の毒牙にかかっては、一大事でしょう?」


 静かな声音で諭す初華に、季白が苦虫を噛み潰した顔になる。


「それは、初華姫様がおっしゃる通りでございますが……」


 季白の肩をなだめるように叩いたのは張宇だ。


「季白。ここは初華姫様がおっしゃる通り、明順のことは龍翔様にお任せしよう。俺も、明順の泣き顔を見ているのは忍びない」


 張宇が穏やかな声で季白を説得する、張宇にまでとりなされ、季白は渋々といった様子で嘆息した。


「……仕方がありません。ここは、初華姫様のお言葉に従い、明順のしつけは龍翔様にお任せいたしましょう。ですがっ!」


 くわっと季白が目を見開く。


「よいですか明順! 龍翔様のお言葉をよく聞いて、海よりも深く反省するように! 龍翔様も、明順をよぉ――く躾けてやってくださいませっ! この際、多少手を出していただいても、むしろ望むところですから!」


「は、はいっ!」

 

 こくこくこくっ、と頷くと、龍翔も「承知した」と吐息混じりに頷く。


「明順には、玲泉の危険性をちゃんと教えておく必要があるようだ」


「明順の純真なところは得難い長所ですけれど、こと相手が玲泉様となると、わたくしも心配でたまりませんわ……」


 初華がはぁっ、と物憂げに吐息する。


 龍翔、初華にともに心配され、明珠はいたたまれなさにさらに小さく身を縮めた。

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