64 晟藍国からの手紙 その4


「殿下。わたしの株を奪わないでくださいませ。怖がる明順をわたしが優しく慰めようと思っておりましたのに」


 玲泉が不満そうな声を上げる。


「明順をお前などにふれさせるわけがなかろう!?」


 怒りに満ちた龍翔の声と同時に、身体に回された腕に力がこもる。


 龍翔の腕の中にいるのだと思うだけで、心身が凍るほどの恐怖が和らいでいく。龍翔のそばにいれば、恐ろしいことなど、ひとつも起こらないようが気がしてくるから不思議だ。


 かぎ慣れた龍翔の香の薫りとあたたかさが、ゆっくりと明珠の心を解きほぐす。


 と、玲泉がからかうように唇を吊り上げた。


「龍翔殿下はよくよく明順を可愛がっておいでらしい。晟藍国や藍圭陛下の事情を、何も明順に教えておらぬとは。それとも、後で二人きりの時に教えて、怯える明順をそのように優しく慰めてやるおつもりでしたか? いやはや、聖人君子のようなお顔をなさっていながら、なかなか腹黒い策士でいらっしゃる」


 玲泉の言葉に、龍翔がぎり、と奥歯を噛みしめるのが、見上げずとも気配でわかった。玲泉が告げたことは龍翔も推測していたことなのだと、本能的に悟る。


 いや、龍翔だけではない。初華や季白達も、玲泉に指摘されるまでもなく、瀁淀の魂胆に気づいていたに違いない。


 ただ一人、明珠だけが何もわかっていなかっただけで。


 明珠は、茶会の後、龍翔に謝られたことを思い出す。


 明珠が知れば哀しむだろうと……。藍圭が両親を亡くし、わずか八歳で国王となったことを秘していた龍翔。


 単に明珠のような役立たずには、事情を話しても無意味だと思われていただけかもしれない。けれど。


 取るに足らぬ明珠などに頭を下げてくれた龍翔の優しさを信じたい。


「違います!」


 気がついた時には、明珠は玲泉を真っ直ぐに見据えて反論していた。


「龍翔様は玲泉様がおっしゃるような御方ではありません! 私にお教えくださらなかったのは、こんな風に怖がらせてしまうだろうと気遣ってくださったからで……。それに、私などでは、知ったとしても龍翔様のお役には立てませんから……。だから、龍翔様を腹黒いだなんて、おっしゃらないでくださいっ!」


 敬愛する主をおとしめられて、従者として黙っていられるわけがない。


 怒りを込めて睨み返すと、玲泉が思いがけず子猫に引っかかれたかのように目をまたたいた。かと思うと、おかしくてたまらないとばかりに吹き出す。


「明順、きみはことごとくわたしの予想をくつがえしてくれるね! まさか、きみから反論されるとは!」


「あ……っ」


 一瞬で、音を立てて血の気が引く。

 玲泉は名家の跡取り息子だ。明珠などが言い返してよい相手ではない。


「申し訳――、っ!?」


 謝ろうとすると、不意に龍翔の大きな手のひらに口をふさがれた。


「玲泉。従者の非礼は、主であるわたしが代わって詫びよう。わたしを思うあまり、つい口から飛び出してしまったらしい。まことにすまぬ」


 頭を下げた龍翔に、玲泉が不快げに目をすがめる。ひやり、と部屋の温度が下がった気がした。


「殿下の謝罪ひとつでなかったことにせよと? 本人が謝罪するのが筋かと思いますが?」


 冷ややかな圧を放つ玲泉の声音に、明珠は身を震わせる。


 怒りに任せて、何ということをしてしまったのだろう。明珠のせいで龍翔を窮地に陥れるなんて、許されることではないのに。


 だが、今すぐ土下座して詫びたいのに、身体に回された腕も、口をふさぐ手も、にかわでくっつけたように離れない。いくらもがいても、うーうー、という不明瞭な呻きが洩れるだけだ。


 と、玲泉がにこりと微笑む。


「わたしも鬼ではございませんのでね。罰しようとは、欠片も思っておりませぬ。ただ、優しく礼儀作法を教えてやるだけでございますよ?」


「おぬしのふだんの行状を見る限り、教えるのが「礼儀作法」だけに留まるとは思えんが」


 龍翔が刃のような視線で玲泉を睨みつける。


「主を思う明順の純粋な心を利用するとは、腹黒いのはどちらだ? 先ほども言った通り、従者の不手際は主であるわたしのとが。謝罪や償いが必要だというのなら、わたしがしよう」


 龍翔の言葉に、「だめです!」と明珠は首を横に振ろうとするが、やはり「うーっ」としか声が出せない。

 明珠の失態を龍翔に償わせるなど、自分で自分が許せない。


「龍翔殿下が償ってくださるとは、それはそれで楽しみですね」


 玲泉が楽しげに喉を鳴らす。


「……が、今回は初華姫様のお顔を立てて、ここで引いておきましょう。先ほどから、恐ろしい目つきでわたしを睨んでいらっしゃる」


「当然ですわ。前に申しあげましたでしょう? 明順を泣かせたらわたくしが許しませんわ、と。こんなに明順を泣かせて……っ!」


 初華の言葉に、明珠は初めて自分が涙を泣かしていることに気づく。


 止めなければと思うのに、まるで発せられない言葉の代わりと言わんばかりに、後から後から涙があふれ出してくる。


 口をふさいでいる手まで濡れてしまうというのに、龍翔の手はまだ離れない。


 怒り冷めやらぬといった様子で、初華が玲泉を糾弾する。


「先ほどは、わざと明順を挑発なさったでしょう!? お兄様を敬愛する明順の純真さを逆手に取って……っ! 許せませんわ! まったく、腹黒策士はどちらのことやら。これ以上、明順を泣かせたら、わたくしの侍女達を呼んで、強制的に叩き出しますわよ?」


 愛らしい面輪に険を浮かべて、初華が玲泉を睨みつける。

 にじんだ視界の向こうで、玲泉が芝居がかった仕草で肩をすくめるのが見えた。


「おお、怖い怖い。初華姫様に侍女をけしかけられぬうちに退散いたしましょう。お力添えを約束したのに、寝込むようなことになっては、差し添え人としての務めを果たせませんのでね」


 玲泉がそそくさと立ち上がる。


「安理。お部屋まで玲泉様の供を」


 季白がすかさず安理に命じる。「はいは~い」と気安く応じた安理が、さっと立ち上がり、玲泉のために扉を開ける。


「ああ、ひとつ言い忘れていたよ」


 扉をくぐりかけた玲泉が、ふと足を止める。


「明順。謝りたいというのなら、わたしの部屋へいつでもおいで。きみなら、いつ来ても大歓迎するよ」

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